■1-2 不鮮明な世界と明瞭な彼女
カラン。
懐かしいはずのドアベルが、
まるで別の世界の音のように響いた。
開いた玄関の向こう――
そこにあったのは、懐かしの我が家ではなかった。
白。
白。
白。
壁も、床も、天井も、
すべてが無機質な白に塗りつぶされた空間。
照明は眩しくない。
なのに、影が存在しない。
物の輪郭だけが、妙にくっきりと浮かんでいる。
寒いわけでもない。
それでも、ひどく冷たく感じた。
体温が、少しずつ奪われているような錯覚。
「……これ、俺の家じゃ……」
「さっきも言ったでしょう。外観だけ。あなたの魂が最後にしがみついた記憶よ。中身はこちら側の事情に合わせてもらうわ」
魂。
記憶。
こちら側。
一つ一つは、理解できる言葉だ。
けれど並べられると、
意味が繋がらない。
頭の中で、噛み合わない歯車が空回りする。
足がすくむ俺を横目に、綾瀬龍華は無言で手招きをした。
「入るわよ。あなたの状況を説明しないと、余計に混乱するでしょう?」
俺は言われるまま、
白い空間へ足を踏み入れた。
一歩目は軽かった。
二歩目で、引き返したくなった。
それでも足は止まらない。
玄関の扉が静かに閉まり、
外の世界の気配が、音もなく遮断される。
その瞬間、
ここが戻れない場所だということだけは、
はっきりと理解した。
足を踏み入れた瞬間、空気がひっくり返ったような感覚がした。
視界のすべてが白い。
床も壁も、通路の先に覗く部屋の内部も。
白なのに、どこか濁って見える。
温度が存在しない場所、という印象だった。
「……ここ、本当に俺の家の中ですか」
思わず聞くと、綾瀬龍華は当然のように答えた。
「違うと言ったでしょう。あなたの記憶の“外側”はこっちが用意してるの。内側は白紙みたいなものよ。必要な機能だけが残っている」
「必要な機能……って、何のために?」
「魂の管理。転生の準備。あなたの安全。いろいろよ」
話しながら、彼女はすいすいと通路を進む。
俺は置いていかれないように後ろを追う。
白い壁に沿って歩いていると、
すれ違う人影がちらほらとあった。
白衣のような、スーツのような服装。
誰も俺を見ない。
「この人たち……何してるんです?」
「研究員。魂や転生の仕組みを扱う人たちよ。あまり気にしなくていいわ。あなたには用はないから」
「俺には……?」
「あなたは調査対象じゃなく、転生プロセスの当事者。彼らの仕事はあなたを観察することじゃない」
それもよく分からない。
でも、一つ言えるのは――
この場所では俺が“普通の人間ではない”ということだ。
少し歩くと、
透明なガラスで仕切られた部屋が並んでいるエリアに出た。
機器が並び、モニターが点滅し、無数の図形や数値が浮かび上がっている。
「ここは……?」
「魂の状態を測定する部屋ね。脳波に近い部分も測るけど、基本は魂の在り方を分析する場所よ」
「魂……」
やっぱり、その言葉の意味が掴めない。
綾瀬龍華は立ち止まり、俺の方を向いた。
その表情は、さっきまでのように冷たくはなかった。
むしろ少しだけ、柔らかい。
「神楽坂十郎。これから話すことは、あなたにとってとても受け入れにくい内容かもしれないわ」
「……はい」
「でも事実よ。だからそのまま聞いて」
喉が鳴った。
白い空間の温度がさらに遠のいたように感じる。
彼女は淡々と続けた。
「あなた、死んだの」
その一言が、静かに、けれど確実に落ちた。
「……え?」
声が出たのは、反射だった。
綾瀬龍華はまばたきもせず俺を見続ける。
「死んだのよ、神楽坂十郎。自分で覚えていないのは珍しくないわ。理由も状況も、そのうち思い出すかもしれないし、あるいは思い出さない方がいいケースもある」
頭が真っ白になった。
白より白い研究所に、
さらに真っ白が降り積もるような、そんな感覚。
「……本当、なんですか」
「嘘をつく理由がないでしょう?
それに――あなた自身が一番分かってるはずよ」
呼吸がうまくいかなくなる。
胸がひゅっと縮む。
なのに、どこか冷静な自分もいる。
(ああ……そう言われてみると、確かに死亡宣言されても反論できないな……)
綾瀬龍華は少し視線を落とし、静かに言った。
「でも、あなたの魂は壊れていない。こうして立っているのが、その証拠よ。魂が残っている限り、次に進むことができる」
「次……?」
「転生。あなたにはその資格がある。もっと正確に言えば――」
彼女はわずかに微笑んだ。
皮肉とも、慰めともつかない表情。
「無様な死に方をした魂にしては上等な状態よ」
胸がどくんと鳴った。
無様な死に方。
その言葉が、
どこか俺の奥底にひっかかった。
何かが始まり、
何かが壊れかけている。
綾瀬龍華は踵を返し、ゆっくり歩き出した。
「続きは所長がいる場所で話すわ。ついてきて」
俺は重い足を引きずるようにして、その後ろを歩いた。
白い世界はひどく不鮮明だ。
なのに、彼女だけが妙に現実感を持っていた。
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