■1-1 俺の知らない俺の実家

「……あれ?」

自分の口から出たその声は、思っていたよりも落ち着いていた。

声だけを切り取れば、寝ぼけて目を覚ました朝のひとりごとと大差ない。

けれど足元の感覚だけが、さっきからずっと頼りない。

地面を踏んでいるはずなのに、確かな手応えがない。

まるで靴底の下に、薄い膜が一枚挟まっているような感触だった。


夜だ。

空は暗く、見上げても星の位置が分からない。

見覚えのない路地が、月明かりだけに照らされている。


街灯はない。

車の走行音も、人の気配もない。

風すら吹いていないのに、空気だけが重く澱んでいる。

無音の夜。

そう言葉にしてみると、

この世界全体が、何かを待って息を潜めているように感じられた。


「えっと……ここ、どこだ?」

自分でも驚くくらい冷静に、言葉が出た。

声が震えなかったことに、逆に違和感を覚える。

けれど胸の奥では、じわり、じわりと、溶けた氷水が広がるように不安が染み始めていた。


とりあえず歩いてみる。

方向は分からない。

ただ、立ち止まっている方が怖かった。

動いていれば、何か分かるかもしれない。

そう自分に言い聞かせるように、足を前に出す。

靴音は、驚くほど小さい。

路地の壁に反響することもなく、

すぐに闇に吸い込まれて消えていく。


数分も歩かないうちに、奇妙なものが目に入った。

家だ。

一軒家。

それも――

「……うち?」

喉がひくつく。

言葉を発した瞬間、舌の奥がひやりとした。


そんなはずはない。

もう無くなっている我が実家だ。

取り壊されたのも、自分の目で見ている。

けれど玄関も、窓も、外壁の色も、門柱の傷の位置まで、どう見ても俺の記憶のままだった。


「いやいやいや……さすがに、これは……」

頭が現実を否定しようとする一方で、視線だけは家から離れない。

目を逸らしたら、もっとおかしなことが起きそうな気がした。

混乱を押し込めるように、チャイムを押す。

ピンポーン。

間延びした音が、静寂の中に浮かぶ。

けれど返事はない。


もう一度。

ピンポーン。

それでも反応はない。

三度、四度、五度。

自分でも、子どもの悪戯みたいになっているのが分かる。

分かっているのに、止められない。

焦りが、思考を追い越して、

手先だけを勝手に動かしてしまう。


「……くそ。何してんだ俺……」

そう呟いた瞬間だった。

「――その当たり方、やめた方がいいわよ。バカっぽいから」

背中に、声が突き刺さった。

物理的な痛みはないのに、

背筋が一気に冷える。

反射的に肩が跳ね、

息を吸うタイミングを失った。

振り返ると、そこにいたのは小柄なスーツ姿の女性だった。

黒いパンツスーツ、きちんとしたブラウス。

どこからどう見ても真面目な社会人。

なのに、目つきだけが妙に鋭い。


美人。

でも怖い。

そして何より、近い。

この距離まで近づかれて、まったく気づかなかった自分に驚く。


「えっと……すみません。何か、焦ってて……」

俺は頭を下げる。

消え入りそうな声が、勝手に喉からこぼれた。

自分が思っている以上に、追い詰められているらしい。

すると女性は、ため息をひとつ吐いた。

深くも浅くもない、感情を削ぎ落としたような息だった。


「謝るのは後でいいわ。まず、こっちを見なさい」

彼女は俺の正面に立ち、

まっすぐに視線をぶつけてきた。

その目は冷たい。

ただ、嫌悪や怒りではない。

人を見慣れている目。

値踏みとも違うが、

感情よりも情報を優先する視線だった。

「……はい」

言われるままに姿勢を正す。

背筋が自然と伸びたのは、

無意識の反応だったと思う。


彼女は小さく頷き、腕を組んだ。

「まず確認させてもらうわ。あなた、神楽坂十郎で間違いない?」

「え? あ……はい。そうです」

「30歳、都内の商社勤務。独身」

「……なんで知ってるんですか?」

「仕事だからよ」

バッサリ切られた。

余計な説明を挟む余地すらない。

けれど、その仕事が、どんな業種なのかはまったく想像できなかった。


「私は綾瀬龍華。よろしくね」

そう言って、彼女は一歩踏み出した。

俺はハッと察して、慌てて道を開ける。

「どうもー」

綾瀬龍華は軽く片手を挙げ、慣れた歩調で、俺の“実家の玄関”の前に立った。

その動作が、あまりにも自然すぎて、

こちらの現実感の方が薄れていく。

まるで、最初から彼女の方がここに属していたみたいだ。


「いや、その……ここは――」

「外観だけよ。中身は別物だから」

さらりと言いながら、

綾瀬龍華はドアハンドルに手をかけた。

ゆっくりと振り返り、

まるで普通の来客を案内するような口調で言う。

「ようこそ、風間転生研究所へ」

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