第二章:アイム イン クジラ

 俺は今、クジラマルタの一部となって大海を泳いでいる。

 脳しかないから、視覚・聴覚・嗅覚・触覚からの直接的な刺激情報はないが、脳に流れ込んでくるクジラ養い主の血中酸素濃度やホルモン物質の分泌度合いで、大体の感じは分かる。


 今、マルタは、泳いでいる。


 酸素濃度が高いことから海面を泳いでいるのだろう。

 俺は、マルタの気持ちよさにつられて、うつらうつらしてしまった。それに伴って過去の記憶が、断片的に無意識イドの底から浮かび上がってくる。


    *


――あれは、いつのことだったのだろう?


 照りつける太陽に反射する白いものが、海から上がってくる。

 白い幅広帽子に白いワンピースの少女(だろう)が、ビーチボール(のようなもの)を持って、こちらに向かってくる。


 少女が俺の側まで近づいてきた。


    *


 ここで、意識に戻った目が覚めた

 いや、か、か、はたまたの記憶なのか定かではない。俺は人間の身体を脱いだことから、感覚器よりもたらされる情報から開放された代わりに、自我を特定する手段を失った。

 おまけに、このクジラには俺を含めて千人のヒトが共棲している。


乗合バスメタバースと考えていただければ結構です。ですから、座席料も安く提供できます。

 一人乗り、ですか? イルカと一対一の共生になりますね。座席料は千倍です』

 今回は乗合バスクジラにした。

 その副作用か、俺の自我は他人の自我と溶け合っているようだ。

『これが、クジラ共生プロジェクトの契約書です』

 アンドロイドから渡された、これまた嫌がらせとしか思えない、分厚いの契約書の付録あたりに、このことも小さな文字で書かれているのだろう。

 他にも何が書かれていることやら。


――千人もいたら、物理的にも精神的にも、養うのが大変だろうな。


 そんな夢想していると、血中にクジラ由来のホルモン物質であるノルアドレナリン集中力と身体能力の濃度が高くなってきた。

 突然、クジラが潜った。


    *


 深く長い時間……体感で千メートル、時間で二時間ぐらい経った頃だろうか、


 と、嫌な音がした。


 いや、今の俺に音が聞こえるはずはないのだが、何かが潰れる音だと俺は感じた。

 ヒト由来のアドレナリン不安の分泌量が、小波のように広がり、やがてクジラの血液中に満ち溢れた。


――他のヒトが、不安を感じて、何かを訴えている!


 俺が読みとばした契約書の付録に、何か大切なことが書いてあったのか? それを、他のヒトは、知っている?!

 

『免責事項:養い主のクジラ自体に危険が及んだ場合、それは契約で保証される安全保障範囲を越え、その対応はクジラの判断に任される』

 誰かのヒトの知識が補完してくれた。


 深く長く潜水したクジラには、エネルギーが必要だ。そしてヒトはタンパク質で構成されている。それは非常用エネルギー源としては最適な物質だ。

 あの音は、誰かの脳が潰されて、クジラに吸収された音!!


 。続けて、弾ける音がする。


 ヒト由来のアドレナリン不安が加速度的に増えた。

 誰もがその音の危険性に気が付き、我れも我れもと、アドレナリン不安を分泌し続けている。大量になったそれは、クジラの血液とともに俺の脳へと送り込まれてくる。


『潰されたくない。潰されるぐらいなら、人間に戻りたい! 』

『心臓ではなく、脳でもなく、他者との関係性の中にはある、なんて嘘っ八だぁ!! 』

『騙されないぞ。自分の身体をとりもどすのだ!!! 」

 俺の頭に、誰のものとも分らない感情が流し込まれる。それに影響されて俺の感情が揺り動かされる。

 不安に駆り立てられても、叫ぶ声も、逃げる足も、持っていない。焦燥感あせりだけが募る。どうしたら良い? 困ったときの神頼みか??

 先の世界大戦のときに、神々がいないことは、はっきりしたのに。


    *


――あれは、いつのことだったのだろう? 


 照りつける太陽に反射する白いものが、海から上がってくる。

 白い幅広帽子に白いワンピースの少女(だろう)が、ビーチボール(のようなもの)を持って、こちらに向かってくる。


 少女が俺の側まで近づいてきた。すこし半身を屈めてビーチボールを突出し、俺に微笑みを投げかける。


    *


 ここで意識が戻った。


――誰かの夢に飲み込まれていたのか……


 俺は、自我を取り戻すために、記憶野の鍵を深く念じ、封印された扉を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る