最終話 自由は裏切りの香りがする

 そこにいたのは知らない人だった。ご主人様と同じくらいに大きくて、でもご主人様よりもすらりとしている。顔を覆う短く黒い体毛と、その顔立ち――これは、黒豹だ。


「話せないのか? どこへ行くのかと聞いている」


 話せないに決まっている。原種は獣人の奴隷のようなものだ。私の役目を知るご主人様の部下ならともかく、それを知らない襲撃者相手に口を利けるわけがない。


 私が相手の正体を確信できたのは、彼の右手にご主人様の首があったから。


「答えろ」

「っ……あ、あの……私……こ、ここの、使用人、で……」


 獣人に答えろだなんて命じられてしまえば、下賤の身の私には黙っていることもできない。けれど、正直に答えることもできなかった。

 ご主人様に抱かれるためにいる、だなんて。言えるわけがない。どう考えても目の前の男はご主人様を殺したのだ。だったら、その子供を身籠ってるかもしれないと思わせることなんて言えるはずがない。


 男が私を見つめる。周りが暗いせいでその瞳孔は大きく開いているけれど、まるで奈落にでも見つめられているかのような不気味さが私を包み込む。

 そのまま男は私を値踏みするように見続けて、しかし不意に右手に目を落とした。


「こいつの飼っていた原種ならそれなりに使えるか」

「っ、は、はい。炊事は一通り、芸事もいくつか。……よ、夜の方も」


 今度は事実を答えた。原種を取り扱う店は、その値を少しでも上げるために私達に色々なことを仕込む。甲という等級が与えられた私は使用人としての技術だけでなく、主を楽しませるための技もいくつか教えられていた。……ご主人様に使う機会はなかったけれど。


「等級は」

「……乙、です」


 甲、とは言えない。甲の原種は値が張る。それでも買うのは跡継ぎを産ませる道具にするためだ。よっぽどのモノ好きならそれ以外の目的で買うこともあるかもしれないけれど、少なくとも私は自分が店で売られていた頃、そういう理由で買われていった同胞を見たことがない。


 沈黙が流れた。男が喋らないからだ。相変わらず男は私をじっと見つめている。私も、必死に見返す。目を逸らせば嘘を疑われてしまうかもしれないから、やましいことなんてないのだと必死に平静を取り繕う。

 ややしてから、男は小さく息を吐いた。「肝は座っていそうだな」その言葉に、まさか嘘がバレたのではと心臓が跳ねる。けれど彼の目が私の全身を確認するように動いたのを見て、死者の血を自分に塗ったことかもしれない、とどうにか気分を落ち着けることができた。


「俺がお前を買う」

「……は」

「俺の店で働け。断るなら今ここで殺す」


 つまり、断れない。ならば頷くしかない。私は西へ逃げたいけれど、逃げるためにはまずこの場を乗り切らなければならないことくらい考えずとも分かる。

 私がコクコクと壊れた人形のように頷けば、男は「持っとけ」と右手に持っていたものを私に放り投げた。


「うわっ、あ……」


 ご主人様の首だった。生温かくて、思っていたよりもずっと重い。抱かれている時はなんとも思わなかった毛並みは、乾きかけの血が肌についていても柔らかさを感じた。


「ついて来い」


 男が踵を返して歩き出す。私は、ただそれを追うことしかなかった。ご主人様の重たい首を抱えて、ただただ新しいご主人様の後ろを小走りで付いていく。


「あ、あのっ……お店って……?」


 聞いてから、しまった、と口を噤んだ。それまで会話していたからうっかり話しかけてしまったが、相手は新しいご主人様で、どんな関係性を望んでいるかまだ聞いていないのだ。

 腕の中のご主人様は、私と会話することを好まなかった。私の悲鳴は好きだったみたいだけれど、泣き喚くのは私が必死に拒んだ。だって、興奮させたら痛いから。


 このご主人様は私に何を求めているのだろう。いや、その前に話しかけてしまったことを謝らなければ。折角生き残れそうなのに、ここで殺されたら原種の集落を目指すどころか逃げ出すこともできなくなる。

 だから慌てて口を開こうとしたら、先にご主人様が「黒白こくびゃく屋」と答えた。


黒白こくびゃく屋……?」


 どこかで聞いたことがあった。だけど前のご主人様に買われてからこの屋敷の外に出たことがなかった私に、どこかの店の名前を聞く機会なんてあるとは思えない。

 だから聞いたのは、きっと買われる前。原種を取り扱う店で、商品として管理されていた頃。


 そこまで考えた時、唐突に思い出した。高い等級の原種のみを取り扱う高級店がある。甲である私を買いに来る人は、そのお店とよく品揃えを比較していた。


 でもまさか、そんな――同じ名前の別の店だろうと、浮かんだ記憶を追い払おうとした時だった。


「原種屋だ。お前は俺達に同族を売るんだよ」


 言われた意味が、よく分からなかった。



 § § §



「――今日、ナンゴの旦那がいらっしゃったんだって?」


 明け方、黒白こくびゃく屋。事務室のソファに優雅に座るのはあの時の黒豹――オウギ様だ。私は彼にお茶を出すと、首から上を覆っていた面と頭巾を取り払った。まだこの店で働き始めたばかりの頃、オウギ様が二人の時はそうせよと命じられたからだ。


「はい、去勢済みの丙のオスを買われていきました」


 お茶を載せていたお盆を抱えながら答える。本当はすぐにでも片付けたかったけれど、ご主人様と会話している時に余所見はいけない。

 私の答えを聞いたオウギ様は眉をひそめると、「去勢済み?」と首を傾げた。


「旦那が飼うオスならそんな必要はないだろ。たまたま気に入ったのがそれだったのか?」

「いいえ、意図されてのことです。得意先の御息女に成人祝として贈られるそうですよ。非力な方なので荷物持ちが必要そうだと」

「ああ、なるほど。結婚前の娘と間違いを犯さないようにか。しかし原種なんぞに惚れる獣人がいるかな。よっぽど浮ついた娘なのか?」

「浮ついているというか、習性というか。それに政略結婚が決まるまで時間がかかりそうだということも心配されていました」

「習性? ここらの蛇族の得意先って……」

「兎族です」

「……あー」


 オウギ様が呆れたような声を漏らす。兎族と言えば、他種族から嫌厭されがちなほど男女問わず性欲が強いことで有名だ。今回はオスが求められたが、兎族は男性の方がお盛んなので、この黒白こくびゃく屋からもよくメスが買われていく。

 とはいえ原種の売り先としてはそこまで悪くない。愛玩されるにしろ雑用をさせられるにしろ、牙も爪も持たない兎族は力も肉食獣ほど強くはない上、そもそも非暴力主義でもある。だから安全は保証されているし、物腰も柔らかいから肉食獣の獣人を相手にした時ほどの恐怖は感じないだろう。四六時中盛っている時期もあると聞くから愛玩用なら相手をするのが大変だろうが、私の時のように毎回命の危険を感じることにはならないはずだ。


「どうせなら乙を売りつけてやればよかったのに」


 考えに耽りそうになった私に、オウギ様が悪巧みする顔で笑いかける。そこに含まれた別の意図を察して、私は「いずれ追加で求められますよ」と答えた。


「今回買われた者は少し体力に難がありますが、手技は秀でています。若い兎族の女性ならもう一人うちから欲しくなるでしょう。ですが流石に甲をお遊び用にはできません」

「だから乙を買う、か」

「等級が上がればより良いものが味わえるかもと期待するのは、若い方にありがちですから」


 そしてお金持ちの生まれならば、少し見栄を張りたくもなるだろう。その時に甲だなんて最高級品しか選択肢がなければ、流石に遊びたいだけの若者には手が出せない。


「やっぱりお前は肝が座ってるよ、ヤナギ。同族を商品としか見てないんだからな」


 ソファの背もたれに腕をかけ、オウギ様が妖艶に笑う。獣人の顔を美しいと思ったのは彼が初めてだ。黒い艷やかな毛並みも、鋭利な眼差しも、原種だったならばどれほどの美丈夫だっただろうと思わず考えてしまうほど。


 けれど、所詮彼も獣だ。彼にとって私を含めた原種は下等種族であり、金の成る木でしかない。

 そして私にとっても、彼は私の飼い主でしかない。


 だから、いつか必ずその手綱を切ってやる。


「あなたから私を買い戻すためです」


 たとえそのために同族を裏切ることになっても。彼らを売りつけたその先で、彼らが口にするのも憚られるような酷い目に遭うと分かっていても。


 彼らを地獄に落としたこの口で自由を勝ち取って、そしてこの足で私は安寧の地を目指す。


「そんなに急がなくてもいいのに」


 名残惜しむようなオウギ様の言葉に感情は乗っていない。そのことに何故か息が苦しくなったことから目をそらすように、お盆を握る手には力が入った。





自由は裏切りの香りがする −了−

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自由は裏切りの香りがする 丹㑚仁戻||新菜いに @nina_arata

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