第2話 逃げる先がない
全身が痛かった。今日もまたご主人様に身体を舐められているからだ。首を入念に擦られるのは、咬みたいという衝動の転換だろうか。
思考を余所に逃がしていたら、足を広げられた。乾ききったそこに無理矢理押し入られる。鋭い痛みに私が身体を強張らせても、ご主人様は一切配慮してくれない。義務のように私を抱く彼は、私の顔すらも把握していないかもしれない。
揺さぶられる。体格差の分、私の身体は大きく揺れる。それを咎めるようにご主人様が私の腰を掴めば、逃げ場を失った力が全部お腹の奥に襲いかかる。
ここからが長い。ご主人様は原種に性的欲求を抱きにくいから、出すのに時間がかかる。私との行為も、ただ私の身体を使って自慰をしているようなもの。だから本当に乱雑に扱ってくる。それだけ興味がないならもっと早く終わらせてくれればいいのにと思うものの、原種をそういう対象として見る獣人は倒錯した性指向が多いと聞くから、むしろこれで良かったのかもしれない。
なんて考えていたら、不意にご主人様の動きが止まった。だけど出したわけじゃない。顔を上げ、丸みのある耳をピクピクと動かし、どこかを睨むように見つめている。
ギリ、と私を掴む手に力が入る。
「っ――――!!」
いつもよりもずっと強い力。やめてくれ、離してくれ。このままじゃその爪は私の骨まで届く。だけど悲鳴を上げられないまま耐え続ければ、ご主人様が私から離れた。そのまま手早く自分の衣服を直し、部屋の外へ。
「え……?」
初めてのことだった。訳が分からない。
まさか飽きられたのか。となると私は乙以下として売られるか、この屋敷の誰かにまわされるのか――ぶるりと震える。こんな生活嫌だと思っていたのに、それよりも酷い生活が急に現実味を帯びて私を恐れさせる。
すると今度は誰かが走って来る音が聞こえた。部屋に飛び込んできたその男は猫科の獣人で、服装からしてご主人様の部下だろう。まさか本当に捨てられるのかと身構えれば、男は「早く服を着ろ」と私を急かした。
拒むという選択肢はない。この男はご主人様ではないけれど、私の立場は彼より弱い。だから言われるがまま服を着ていると、男は警戒するように部屋の外に目をやった。
その時、私の耳がやっと別の音を拾った。悲鳴だ。それから雄叫びも、銃火器を使うような音も聞こえる。
只事ではない――気付くやいなや、私の頭は勝手にこの状況の答えを手繰り寄せた。
恐らく、襲撃を受けている。肉食獣の獣人はよく縄張り争いをしていると聞く。それが今、ここで起こっているのだ。
だからご主人様は対応に向かった。この男がここに来たのは、私を避難させるため。狙いがご主人様ならその子供も狙われうる。私はまだ妊娠しているかどうかも分からないけれど、身籠っている可能性がゼロではないからと助ける判断をしたのだろう。
どうやらこの立場は私を守ってくれるらしい。でも、彼らが負けたら? その後はどうなる?
浮かんだ疑問の答えを考える間もないまま、男が私の手を引いて走り出す。軽く走っているようにしか見えないのに、私は全力で足を動かしても引き摺られていた。
そんな私に痺れを切らした男が私を抱える。一応お腹への負担を考慮されたのか横抱きだけど、掴まれた足と肩にはご主人様よりも鋭い爪が突き刺さった。
猫なら爪はしまってくれればいいのに。そう思ったけれど、今は彼も興奮しているのだと納得した。身体が力んでいるから、爪も出ている。理由は分かっても受け入れることはできない。だって、物凄く痛い。
揺れるたびに男の爪が私の肉を抉る。そのたびに、やはり獣人にとって原種は思いやる価値もない存在なのだと実感する。
けれど屋敷の庭に出た時、その時間は突然終わった。
「――――!?」
気付いたら地面に放り出されていた。周りを見れば、私を抱えていた男が倒れている。頭から流れるのは血だ。頭に穴が空いていて、そこからどくどくと血が溢れ出している。
男は、事切れていた。
「…………」
どう、すればいいだろう。周りには戦いの音が響き渡っている。だから、逃げたほうがいい、のかもしれない。
でも、分からない。どこに逃げればいい? 何から逃げればいい?
男は私を助ける役目を負っていた。なら、ご主人様の他の部下は? 彼らは私のことを知っているだろうか。どうせ卑しい原種だと、助ける気など起こらないのではないだろうか。
けれどただの使用人だと判断されれば、襲撃者達も私を攻撃しないかもしれない。
そこまで考えて、はっと閃くものがあった。
「匂い……消さなきゃ……」
ご主人様の匂い。つい今しがたまで彼に抱かれていた私の身体には、きっとその匂いがこびり付いている。ご主人様を狙ってきた輩はこの匂いを見逃してはくれないだろう。
腕が自然と動く。倒れる男の血を手に取って、体中に塗りたくる。特に、首。ご主人様に舐め回されたそこを洗うように必死に赤いそれを擦り付ける。
ひりひりした。だけど、悪い気はしなかった。ご主人様に、あの男になぶられたという事実が消えていくような快感があって、もっと、もっとと血を求めて体に塗りつけた。
そうして夢中で全身を赤く染めていると、いつの間にか周りが静かになっていることに気が付いた。
様子を探れば、ご主人様の部下らしき人達がそこかしこで事切れているのが分かった。ここはあらかた片付いたから、襲撃者は別のところへと向かったのだろう。
今だ、と思った。今なら逃げられる。……どこに?
疑問は私の身体をそこに縫い付けた。全身から漂う血の匂いが私を嘲笑う。こんなことをしたところで何の意味もないと、ただ汚れただけではないかと高笑いする。
ああ、何をやっているんだろう――呆然とした時、不意にいつか聞いた噂話を思い出した。
『西の山奥に原種の集落があるらしい。昔この国一番の霊峰があった場所で、獣人を作った原種はそのままそこのシェルターに隠れ住んでいるんだって』
これを聞いた時は、なんて馬鹿げた話だと思った。原種はかつての環境を生き残れなかった。だから人類の血を守るために獣人を作ったというのに、そんな夢みたいな話があるはずがない。
だけど、知っている。原種は獣人を作る技術を持っていた。だったら、ほんの僅かでも自分達が生き残れる場所を用意できたのではないか。そこなら、原種は安全に生きられるのではないか。
そこに行こう。西のどこかは分からないけれど、霊峰があったというなら歴史を調べれば場所が分かるかもしれない。
希望が私の足に力をくれる。爪の刺さっていた足は痛かったけれど、だけど痛みに慣れていたお陰で歩くくらいなら我慢できる。
けれど、数歩も歩くことができなかった。
「――どこへ行く」
冷たい男の声が、私を止めた。
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