自由は裏切りの香りがする

丹㑚仁戻||新菜いに

第1話 商品は人間

 新月の夜だった。しかし、誰も空に明かりがないことには気付かない。

 石畳の道を照らすのは無数の灯籠、そしてその少し上から漏れ出る室内の行燈の光。それらが空の闇との間に仕切りを作る。

 だから空を見上げても、その先にある星々を見つけることは難しい。


 小さな火の、赤い光。数え切れないほどのそれらが集まり、重なり、道とそこを行き交う人々のを橙色に照らし出す。


 その暖かい光に包まれた一角に、数寄屋造りの大きな建物があった。入口に立つのは着物を来た二人の男。丸い模様のある短い毛皮、小さく丸い耳、鋭い眼光を放つ双眸の間には猫科特有の太い鼻梁があり、その下の口をむにゃりと動かせば、中から太い牙が覗いた。豹族の獣人だ。

 門番のように立つ彼らに近付いたのは、道の先からやってきた一人の男。毛皮はない。代わりにスーツに隠されていない部分は鱗に覆われて、口からは時折チロチロと細長い舌が遊ぶ。


「ここは黒白こくびゃく屋さんで良かったかね」


 男が豹の獣人達に声を掛ける。すると右の獣人がにっこりと口角を上げて、「ご予約は?」と男に尋ねた。


「していないんだ。出直さなければならないかい?」

「いいえいいえ、そのようなことはございません。どうぞこちらへ」


 右の獣人が言った時にはもう左の獣人が門を開けていた。右の獣人は男を連れてその先へ。


 そこに、一人の女がいた。


「ようこそいらっしゃいました。本日ご案内させていただきます、ヤナギと申します」


 物腰の柔らかさに似合う上品な着物。頭から尼頭巾のようなものを被り、更に顔は面で覆われ肌は一切見えない。

 女は男を建物の中へといざなうと、「ご存知かと思いますが、当店が扱いますのはへい以上の原種のみとなります」と説明しながら、店内を示した。


「どうぞ心ゆくまでご覧くださいませ」


 女が示す先に並んでいたのは、美しく着飾られた人間だった。



 § § §



 全身が痛かった。獅子の獣人は身体が大きく、力も強い。その力で押し倒されないように先にベッドに倒れ込んでも、無遠慮にこの身体に触ってくる力もまた強いものだからあまり意味はない。ザラザラの舌で舐められれば皮膚は擦れ、腰を打ち付けられればぶつかった太腿とお腹の奥に鈍い痛みが走る。

 愛撫だなんてものではない。これはただの生殖行為だ。この腹を貫く以外に触れられるのは、彼が、私のご主人様が性的に興奮するため。毛皮を持たない私では簡単に欲情できないらしく、ご主人様は自分の欲を奮い立たせるために私に触れる。


 だから、私はいつも死の淵に立たされる。


 ヤスリで削られるような肌の痛みも、お腹を貫く鈍痛も、乱暴に掴まれた腕にできる大きな引っ掻き傷の熱だって我慢できる。でも首に触れる牙だけは、どうしても怖い。

 大きな口は私の首を容易に覆う。横向きに噛まれれば首の半分がその口内にすっぽりと収まって、両の頸動脈に上下の牙が触れる。それが、彼を一番興奮させる。

 この牙がここにある時は動いちゃいけない。呻き声だって上げてはいけない。それらは肉食獣の本能を刺激するから、その瞬間この肌には牙で穴が空く。動物だった頃とほとんど変わらない顎の力で咬み付かれれば、この首の骨は簡単に折れるだろう。興奮のままに彼らが首を振れば、もしかしたら私の頭は胴体から離れてしまうかもしれない。


 そうならないようにご主人様が気を付けてくれるだなんてことには期待しない。獣人にとっての命は軽いから、死んだら死んだ方が悪いと唾を吐きかけられるだけ。

 だから、生きるために息を潜める。ガタガタと震える身体をどうにか抑え込んで、早くこの時間が終わるように願い続ける。


「うぐっ……!?」


 カエルが潰れたような声が出かかったのは、全身を苛む痛みが急に強くなったからだ。

 慌てて声を飲み込む。もう、首にご主人様の口はない。だけど悲鳴は上げられない。お腹を穿つ痛みが強くなったのは、この時間の終わりが近いから。一番ご主人様が興奮している時だから、下手に呻いて煽ってしまえば抱き殺されてしまうかもしれない。


 お腹に何度も抉られるような痛みが走る。裏腿なのかお尻なのか、ご主人様の太腿でぶたれるそこには鈍い痛みが広がる。掴まれた腰には太い爪が突き刺さって、治りかけていた傷が再びなぶられる。

 そのまましばらくの間耐えていると、ご主人様の動きが止まった。ずるりと私のお腹から異物が引き抜かれる。濡れないまま受け入れさせられたそこは麻痺したようにじんじんして、けれど股を閉じると鋭く痛んだ。


 ご主人様は、何もなかったみたいに洋袴を上げた。私を一瞥することもなく部屋を出ていって、そのままこの屋敷のどこかへと消えていく。

 その足音が聞こえなくなった頃、私は必死に起き上がって股に手を伸ばした。身体のあちこちから血が出ているけれど、そんなことはどうでもいい。このお腹の中のものを全て掻き出さなければ、あの獣の子を孕んでしまう。


 ご主人様が私を飼っているのはそのためだけど、拒否権がなかっただけで私の望みじゃない。この腹から生まれてくるのはご主人様と同じ獅子族の獣人か、私と同じ原種のどちらか。獣人ならそれなりの暮らしはできるだろう。だけどその特徴を持たない原種だったら、辿るのは私と同じ未来。

 獣人よりも身体が弱く、数が少なく、彼らに使役されるだけの人生。雑用係なのか愛玩用なのか、はたまた生殖のためか。そこには違いが出るかもしれないけれど、でも獣人に虐げられる生活なのは変わらない。


 そして一人子供を産めば私が自由になれるかと言えば、勿論そんなことはなく。ご主人様がお世継ぎの数に満足するまで私は彼に飼われ続ける。本当に、ただ子供を産むだけの道具。ご主人様のようなお金持ちの子供を産むことが許された私は、原種の中ではこうという一番良い等級がつけられている。だけどご主人様が私を捨てれば、中古品としておつ以下に下がる。

 どこまで下がるかはその時の私の品質次第。甲に必須だった血筋は変わらないから、年齢や体力を含めた健康状態で査定されるのだろう。そしてそうなれば、今よりも厳しい生活が待っているはずだ。


 だから甲は、原種の中でも幸運と言われている。獣人同士は種が違っても交配できるけれど、親が犬と猫なら子供も犬と猫の両方生まれる可能性がある。あとは、稀に原種も。

 原種――かつての人類が過酷になりゆく環境を生き抜くために強い肉体を持つ獣人を作ってから、それまでいた人類は原種と呼ばれるようになった。

 そして人類は、自分達が交配できるように獣人をデザインした。いつか世界の自然環境が回復したら再び人類の世が来るように。


 でも、そんな日は来なかった。人類が、原種がこの世界で普通に暮らせるようになった頃にはもう、この世は獣人のものになっていた。だから私達原種は獣人に飼われるしかない。


 そんな経緯があるものだから、原種は獣人の子を産むことができる。種を重視する良家の獣人は、己の種族以外が生まれない原種との交配を好んだ。同じくらいの確率で原種も生まれるけれど、彼らにとって原種は家族じゃない。生まれたら店に売るか、政治の道具として飼えばいいだけ。そこにお家問題は絡まない。

 甲は、健康状態など生物としての品質が優れているだけでなく、親が良家の獣人の場合にのみ得られる等級だ。だから甲を買うのも良家かお金持ちだけ。お陰で両親が名家の獣人だった私には綺麗なベッドのある個室が与えられている。食事も、温かく美味しいものが出る。腹の子が獣人なら健康に産まなければならないから、ちょっとした運動の機会だって与えられる。


 原種の中では、私は幸せな暮らしをしている方なのだろう。しかもご主人様は獅子だから、私を毎日は抱かない。獅子族の男は多くの女を囲う。だから私の順番が回ってくるのは二、三日に一回だけ。

 その間にこの傷をできるだけ癒やし、そしてまたご主人様を受け入れるのが私の仕事だ。ご主人様は原種相手に欲情するのが本当に難しい方らしく、それでもたくさん子を成さなければならないのだから、飼われている身からしても大変だろうなとは思う。でも私は彼の欲を煽るために痛めつけられているので、可哀相だとは思わない。


 ここから逃げ出したい。あんな獣に身体をまさぐられるのなんて気持ち悪い。痛いし怖いし、良いことなんてこれっぽっちもない。

 だけどご主人様に捨てられればもっと嫌なことが起こるのは目に見えているから、ここから逃げ出せない。


 いっそこの無駄な行動をやめてしまおうか――手を汚す白いそれを睨みながら、思う。


 こんなことをしたところで気休め程度にしかならない。中に出されている時点でいつ孕んでもおかしくはない。だったらご主人様の精を可能な限りお腹の中に留めて、彼の子を身籠る努力をしてみようか。そうしたら、少なくとも今の暮らしは守られる。


 ……なんて、思ってもやらない。

 私と同じ目に遭う子は産みたくない。いずれ私を虐げるような獣も。そんな生き物をこのお腹で育てないといけないと思うとぞっとする。


 だけど嫌だ嫌だと思うだけで、私には何もできない。

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