第10話:荒野の王として
第10話:荒野の王として
パランの荒野には、神が授けた「乾いた自由」が吹き荒れていた。 かつて母子を死の淵へと追い詰めたベエル・シェバの熱砂とは違う。ここにあるのは、赤茶けた岩肌を削り、淀んだ空気を一蹴する、誇り高き風の通り道だった。
「――シュッ!!」
静寂を切り裂いたのは、鋭利な一閃。 弦が弾ける「ベンッ」という低い振動が空気を震わせ、放たれた矢が風の抵抗を嘲笑うように突き抜けた。遥か遠く、岩陰を駆けていた野鹿が、悲鳴を上げる間もなく砂の上に崩れ落ちる。
「見事だ、イシュマエル」
岩の陰から姿を現したハガルの声には、慈しみと、隠しきれない誇りが混じっていた。 そこに立っていたのは、かつて「水……」と掠れた声で死を待っていた、あのひ弱な少年ではなかった。 陽光に焼かれ、青銅のような輝きを放つ筋骨隆々とした肢体。獲物を射抜いた瞳は、パランの鷹のように鋭く、それでいて深い知性を湛えている。イシュマエルは、父アブラハムの天幕にいたどの勇士よりも、逞しい「荒野の弓の達人」へと成長していた。
「母さま。今日の鹿は身が引き締まっている。夜はご馳走だよ」
イシュマエルが笑った。その白い歯が、荒野の陽光を撥ね返す。 彼は獲物を担ぎ上げ、ハガルの待つ即席の野営地へと歩き出した。彼の足取りには、誰の顔色を窺うこともない、この大地の王としての確かな重みがあった。
日が落ちると、砂漠は急激に温度を下げ、紫紺の帳が世界を包み込んだ。 天幕を張らず、吹き曝しの岩影に焚き火を熾す。 パチ、パチと爆ぜる火の粉。串に刺した鹿の肉が熱せられ、ジリジリと滴る脂が火に落ちては、鼻腔をくすぐる強烈な香ばしさを撒き散らす。
「……いい匂い。アブラハム様の天幕で食べた、どの羊よりも力強い匂いだわ」
ハガルは、焼けた肉をナイフで削ぎながら、目を細めた。 かつて彼女を支配していた「没薬(ミルラ)」の甘ったるい香りは、もうここにはない。あるのは、焼けた獣の肉の匂い、乾いた薪が燃える煙の匂い、そして、どこまでも澄み渡った夜気の冷たさだけだ。
「母さま。時々思うんだ。もしあの日、僕たちが追い出されなかったら、僕は今頃どうなっていたのかなって」
イシュマエルが、火を見つめながらぽつりと呟いた。 ハガルは、肉を差し出す手を止め、息子の顔を見つめた。
「どうなっていたかしらね。きっと、イサクの傍らで、正妻の顔色を窺いながら、豪華な食事を口にしていたでしょうね。でも……」
「でも、弓の射方は知らなかっただろうな」 イシュマエルが言葉を継ぎ、豪快に笑った。 「あんな窮屈な天幕の中じゃ、風の読み方も、神様が井戸を隠している場所も、何ひとつわからなかった。僕は、この砂の上に立っている今が、一番自分らしいと感じるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ハガルの胸の奥で、長年抱えていた最後の「澱(おり)」が、すうっと消えていくのを感じた。
(ああ……そうだったのだわ)
ハガルは、自分の荒れた掌を見つめた。 かつてはサラの肌を美しく保つために働かされていた手が、今は息子を支え、自らの手で獲物を捌き、神との対話を刻んでいる。
「イシュマエル。私はずっと、あの追放を、サラ様からの残酷な『呪い』だと思っていた。神様に見捨てられた、惨めな儀式だと。……でも、違ったのね」
ハガルの声に、深い悟りが宿る。
「あれは、私たちが奴隷であることをやめ、『自由な民』となるための、聖なる通過儀礼だったのよ。あの天幕を追い出されなければ、私たちは一生、誰かの影として生きるしかなかった。神様は、私たちを突き放すことで、私たちを真の王として自立させてくださったのね」
イシュマエルは、母の肩を強く抱き寄せた。 その腕は熱く、頼もしく、かつて自分を守ったアブラハムのそれよりも、ずっと確かな「約束」に満ちていた。
「母さま。僕は、誰のことも恨んでいないよ。父さまのことも……あの厳しいサラ様のことも。あの人たちが僕を荒野に放り出してくれたから、僕は神様の声を、誰の仲介もなしに聞くことができたんだから」
イシュマエルは空を仰いだ。 そこには、アブラハムに約束された「星の数ほどの末裔」を予感させる、無数の光が瞬いていた。
「『エル・ロイ』……私を見ておられる神。あなたは、私たちが石を投げられ、泥を啜っていたときも、ずっとこの場所を準備しておられたのですね」
ハガルは、焚き火の熱を感じながら、静かに祈った。 もう、喉を焼く渇きに怯える必要はない。 彼女たちの心の中には、あの日、ベエル・シェバの荒野で湧き出た、あの水晶のような「約束の井戸」が、今もこんこんと湧き続けているのだから。
夜の風が、イシュマエルの長い髪をなびかせた。 彼は弓を傍らに置き、母親と分け合った肉を、噛み締めるように味わった。 二人の影は、焚き火の光に照らされ、パランの岩壁に大きく、雄大に映し出された。 それは、歴史の隅に追いやられた侍女と私生児の影ではなく、これから何千年も語り継がれることになる、砂漠の王たちの始まりの姿であった。
さらば、黄金の天幕よ。 さらば、没薬の香る偽りの安寧よ。 ハガルは、夜明けに向かう荒野を真っ直ぐに見つめた。 彼女の瞳には、かつての絶望は微塵もない。 ただ、自由を愛し、神に愛された、一人の「荒野の母」としての、気高い光が宿っていた。
砂の祈りは、水の約束へと変わり。 追放された者たちは、今、もっとも自由な場所で、自らの王国を歩み始めたのである。
お読みいただきありがとうございました。 『砂の祈り、水の約束 ―ハガルとイシュマエル―』、全10話完結です。
絶望から始まり、五感の苦痛を経て、最後には「追放さえもギフトであった」と悟る二人の再生を描き切りました。この物語が、あなたの心に深く残る一編となれば幸いです。
『砂の祈り、水の約束 』 春秋花壇 @mai5000jp
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