第9話:神の聞き届け

第9話:神の聞き届け


 世界から音が消えていた。  ハガルの鼓膜に張り付いていた砂のざわめきも、自身の喉を掻き切るような嗚咽も、すべてが遠い彼方へ押し流され、ただ深い、死の淵のような静寂がそこにあった。


 (ああ……終わるのだわ。すべてが、この白すぎる光の中で)


 ハガルは砂の上に突っ伏したまま、動かなくなった。焼けた砂の粒子が頬に食い込み、命の最後の一滴が熱に奪われていくのを感じていた。意識の輪郭がぼやけ、かつての天幕、アブラハムの腕の熱、サラの冷酷な瞳――それらすべてが砂嵐の中に消えていく。


 だが、その完全な沈黙を破ったのは、風の音ではなかった。


 「……ぁ、……っ……あ……」


 灌木の下、死を待っていたはずのイシュマエルが、最期の力を振り絞って発した小さな、けれど鋭い喘ぎ。それは「助けて」という言葉にさえならない、剥き出しの生命の「泣き声」だった。


 刹那、天が割れた。


 「ハガルよ。何事か」


 その声が響いた瞬間、砂漠を支配していた殺人的な熱気が、一瞬にして凍りついた。  それは耳で聞く音ではなく、魂の深淵に直接注ぎ込まれる、万年雪を溶かした水のような清冽な響きだった。ハガルの肌を刺していたトゲの痛みも、焼けるような皮膚の熱も、その声が通り過ぎた後には、不思議なほど静かな凪へと変わっていた。


 「……あ……ああ……」


 ハガルは重い瞼を押し上げた。視界を埋め尽くしていた無慈悲な「白」が、今は慈しみ深い、透き通った光に取って代わられていた。


 「恐れるな。神は、あそこにいる子供の声を、確かに聞き届けられた」


 御使いの声が、涼風となってハガルの頬を撫でる。その響きには、かつて「シュルの道」で聞いた時よりもさらに深い、慈愛と揺るぎない約束が込められていた。


 「立って、あの子を抱き上げなさい。お前の手で、彼をしっかりと支えるのだ。私は彼を、大きな国民とする」


 ハガルの身体に、説明のつかない力が満ち溢れた。  干からびていたはずの筋肉が脈打ち、彼女は弾かれたように立ち上がった。砂にまみれた視界を凝らし、イシュマエルの方を見ようとした――その時。


 不毛の砂漠、命の欠片もなかったはずのその地面が、ふわりと揺らいだ。    ――ピチャリ。


 現実のものとは思えない、澄んだ音が響いた。  ハガルの目の前、わずか数歩の場所に、鏡のような水面を湛えた「井戸」が現れていた。


 「……井戸? 嘘よ、こんな……こんな奇跡が……!」


 ハガルは震える足で井戸へ駆け寄り、その淵に手をついた。  そこにあるのは、泥の一粒さえ混じっていない、水晶のように透き通った水だった。地底の奥深くから湧き出たばかりのそれは、太陽の光を反射して、神の瞳のように眩しく、青く輝いている。


 ハガルは、ひび割れた掌をその水面へと浸した。


 「……っ!!」


 驚くべき、心臓まで凍りつくような水の冷たさ。  それは、この数日間、彼女たちが味わってきた「死」という名の熱を、一瞬で無に帰す聖なる拒絶だった。掌を抜けると、指先から全身へ向かって、生命の奔流が駆け抜けていく。水の匂いは、どんな香料よりも清らかで、甘やかな土の匂いを微かに含んでいた。


 ハガルは狂ったように水を掬い、革袋を満たした。革袋が再び「ずしり」とした重みを取り戻す。それは絶望の重さではなく、未来の重さだった。


 「イシュマエル! イシュマエル、起きて! 水よ、水があるわ!」


 ハガルは灌木の下へ走り、息子の頭を抱き上げた。  革袋の口を、少年のカサカサに乾いた唇に当てる。  水が、イシュマエルの喉を通る音がした。ゴクリ、ゴクリと、小さな、けれど確かな嚥下。


 「……はぁっ! ……はぁ、はぁ……」


 少年の瞳に、光が戻ってきた。  彼は大きな息を吐き出し、朦朧とした意識の中で、母の顔を見つめた。    「母さま……。……つめたい……、……おいしい、よ……」


 イシュマエルの声に、力が宿っていた。  ハガルは今度こそ、堰を切ったように泣き出した。水分が戻った瞳から、大粒の涙が溢れ、少年の頬に落ちる。


 「そうよ、イシュマエル。神様が、あなたの声を聞いてくださったの。私たちは、捨てられていなかった……! あなたは死なない。あなたは、この荒野の王になるのよ」


 ハガルは息子を力一杯抱きしめた。  少年の身体からは、先ほどまでの死の冷たさは消え、生きようとする若々しい熱が戻っていた。


 見上げれば、あれほど恐ろしかった太陽は、今はただ世界を優しく照らす光の塊でしかなかった。旋回していた禿鷹の姿は消え、代わりに、荒野のどこかで名もなき鳥が、生命を寿ぐように鋭く鳴いた。


 「ハガルよ。私はお前たちの神。お前たちがどこへ行こうとも、私はそこにいる」


 御使いの声は、温かな余韻を残して、砂漠の風の中に溶けていった。    ハガルは、井戸の傍らに座り込み、息子に何度も何度も水を飲ませた。  一袋の水は、今や尽きることのない命の泉へと変わった。    (エル・ロイ。私を見ておられる神)


 ハガルは、水晶のような水面に映る自分の顔を見つめた。  そこには、もはや震える侍女の姿はなかった。  神の聞き届けた(イシュマエル)という奇跡を抱いた、誇り高き一人の母の瞳があった。


 砂漠は、もはや死の場所ではない。  ここは、新しい国が生まれるための、聖なるゆりかごとなったのである。


第9話:神の聞き届け、完結です。 「熱と死」から「水と生命」への劇的な転換を、五感を通じて描写しました。井戸の水の冷たさが、ハガルの魂の救済として伝わっていれば幸いです。


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