第8話:灌木の下、母の絶叫
第8話:灌木の下、母の絶叫
もはや、一歩を踏み出すための意志さえも、熱砂の彼方へ蒸発してしまった。 ハガルの膝は、無慈悲な重力に抗いきれず、熱を孕んだ砂の上に崩れ落ちた。ずしりと、腕の中に抱えたイシュマエルの重みが、彼女の最期の矜持を押し潰す。
「……っ、ぁ……」
声にならない吐息が、ひび割れた喉を通り抜ける。それは、乾いた古布を裂くような、無残な音だった。 目の前には、砂漠の過酷な乾燥に耐え忍び、ねじ曲がったように生える一本の低い灌木(かんぼく)があった。葉というよりはトゲに近い、灰色の枝がまばらに茂っている。それが、この死の世界で唯一、母子に許された「影」のすべてだった。
ハガルは、震える手でイシュマエルをその茂みの下へと横たえた。 灌木の鋭いトゲがハガルの腕の皮膚を裂き、赤い筋を作ったが、痛みさえも熱砂に焼かれた感覚の中では遠い響きでしかない。
「イシュマエル……、……私の、光……」
少年の瞳はすでに虚ろで、焦点はどこか遠い空の彼方、あるいは死の入り口を見つめているようだった。熱で浮いたその頬に触れると、肌はカサカサに乾き、命の灯火が今にも立ち消えそうなほどに細くなっているのがわかる。
「……もう、見ていられない」
ハガルは、突き動かされるようにその場を離れた。 我が子の命が尽きる瞬間、その輝きが灰になる瞬間を、この瞳に焼き付けることだけは耐えられなかった。それは母親としての愛というよりは、もはや生存本能が拒絶するほどの、絶対的な悲劇だった。
彼女は、矢の届くほど――約百メートルほどの距離を、ふらふらと歩いた。 砂混じりの風が吹き荒れ、細かな粒が彼女の充血した目に容赦なく突き刺さる。瞬きをするたびに、目に砂が入り込み、激痛が走る。けれど、その痛みさえも、彼女を狂気から繋ぎ止めるための、頼りない楔に過ぎなかった。
ハガルは砂丘の斜面に腰を下ろした。 灌木の下に横たわる、小さな、動かなくなった影。 その影を見つめながら、ハガルの喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れ出した。
「う……ぁ、ぁあああ……ッ!!」
それは言葉を失った魂の叫びだった。 涙は出ない。水分はすべて、この灼熱の太陽に捧げてしまったからだ。ただ、喉の筋肉が痙攣し、空気をかき乱すような、絶叫とも嘆きともつかぬ異様な声が、荒野の静寂を切り裂いた。
(なぜ。……なぜ、主よ)
脳裏に、ただひとつの問いが岩を打つ波のように繰り返される。
(なぜ、私をあの天幕から連れ出したのですか。なぜ、私にあの熱を、あの愛を教えたのですか。なぜ……あの子に『神は聞き届けられた』という名を授けながら、今、この死の静寂の中に放置するのですか!)
かつてエジプトの奴隷だった頃、彼女は「無」だった。希望がなければ、絶望もなかった。 アブラハムに抱かれ、自由を夢見、そして「大きな国民の祖となる」という言葉を信じてしまったことが、今、世界で最も残酷な罰となって彼女に降り注いでいる。
「……あ、あ、ああ……っ!」
ハガルは自分の胸をかきむしった。 砂が爪の間に入り込み、肌を傷つける。風に乗って流れてくるのは、死を待つ禿鷹の羽音と、命の終わりの予感に満ちた、鉄のような砂の匂い。
「イシュマエル……。死なないで……いや、いっそ、早く……楽に……」
自分でも何を願っているのかわからなかった。 狂おしいほどの愛と、それを引き裂くほどの絶望。 感情はすでに摩耗し、枯れ果て、ただ「痛み」という純粋な感覚だけが、彼女をこの地獄に繋ぎ止めている。
(私は……何のために、あの泉から戻ったの? サラ様に打たれ、蔑まれ、それでも耐えたのは……あの子が、この砂の上に転がって死ぬためだったの?)
砂漠の太陽は、ハガルの問いに答えることなく、ただ「白」い無関心を撒き散らし続けている。 灌木の下の影は、もはや動かない。 ハガルは天を仰ぎ、声を限りに叫び続けた。
その絶叫は、風にかき消され、誰の耳にも届かないかのように思えた。 だが、その声は、極限まで張り詰め、千切れる寸前の魂から放たれた、人間としての最後の一矢だった。
意識が遠のいていく。 砂の熱さが、いつしか心地よい眠りのような重みへと変わり始めたその時。
ハガルの耳に、風の音とは違う、何かが震えるような音が届いた。
――それは、灌木の下で、死に瀕した子供が、最期の力を振り絞って発した「声」だった。
母の嗚咽と、子の沈黙。 その狭間で、世界の鼓動が、一瞬だけ止まった。
第8話:灌木の下、母の絶叫、完結です。 肉体的な苦痛(トゲ、砂、乾き)と、精神的な崩壊が極限で混じり合う、物語の最も深い谷底を描きました。
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