第7話:ベエル・シェバの彷徨
第7話:ベエル・シェバの彷徨
太陽はもはや、生命を育む恵みの火ではなかった。 それは天の頂からすべてを等しく焼き尽くそうとする、残酷なまでに巨大な「白」い眼だった。
ベエル・シェバの荒野。 どこまでも続く黄土色のうねりは、熱気によって歪み、遠くの景色を陽炎(かげろう)の中に溶かしていた。ハガルの視界は、照り返す砂の眩しさで白く滲んでいる。目を閉じても、まぶたの裏には真っ赤な残像が焼き付き、逃げ場はどこにもなかった。
「……はぁ、はぁ……っ」
肺に吸い込む空気は、まるで火を飲んでいるかのように熱い。 ハガルの肩に食い込んでいた革袋は、今は驚くほどに軽く、無慈悲に萎びていた。最後の一滴をイシュマエルの口に注いだのは、いつのことだったか。もはや時間の感覚さえも、熱砂の彼方へ消え去っていた。
「母さま……。……みず……」
隣を歩くイシュマエルの声は、砂を噛んだようにカサカサに枯れ果てていた。 かつて荒ぶる野ロバのように跳ね回っていた少年の面影は、そこにはない。日焼けで赤黒く腫れ上がった肌、ひび割れて皮の剥けた唇。イシュマエルは一歩踏み出すたびに膝を震わせ、今にも崩れ落ちそうな身体を、かろうじてハガルの手に預けていた。
「もう少しよ、イシュマエル。……あの丘を越えれば、きっと」
ハガルの言葉は、自分自身さえも騙せない虚ろな響きを持っていた。 丘を越えても、また丘があるだけだ。ベエル・シェバの荒野は、迷い込んだ者を静かに、確実に、乾きへと誘う迷宮だった。
「もう……歩けないよ。喉が、くっついて……息ができないんだ」
イシュマエルがその場に膝をついた。さらさらと、乾いた砂が少年の膝の下で音を立てる。ハガルは慌てて彼を抱き上げたが、その身体は恐ろしいほどに熱く、水分を失って軽くなっていた。
「ダメよ、寝てはダメ! 立つのよ、イシュマエル!」
ハガルが叫んだその時、ふと、空に動く影が差した。 見上げれば、目も眩むような白銀の空に、数羽の禿鷹(はげたか)がゆっくりと円を描いている。彼らは急がない。獲物が動かなくなる瞬間を、この熱砂の地獄で、ただ静かに待ち続けているのだ。死の匂いを嗅ぎつけた死神たちの、低く、重苦しい羽音が聞こえてくるようだった。
「……あいつら、僕を待ってるの?」
イシュマエルが、焦点の合わない瞳で空を見上げた。そのカサカサの唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
「お父様の天幕には……たくさん、水があったよね。……冷たくて、甘い、水……」
その言葉が、ハガルの胸を鋭利なナイフで突き刺した。 アブラハム。正妻サラ。彼らが今、涼しい天幕の陰で、氷のように冷たい泉の水を酌み交わしている様子が鮮明に浮かぶ。その対比が、ハガルの心に絶望という名の猛毒を流し込んだ。
「……ごめんね。ごめんね、イシュマエル。お母さんが、あなたをこんなところに……」
涙を流そうとしても、涙腺はすでに干からびていた。ただ、目頭が熱く焼けるような痛みがあるだけだ。ハガルはイシュマエルを抱きしめたが、彼女自身の肌もまた、熱砂に焼かれて火傷のような熱を帯びていた。
足元では、砂の下を這う蠍(さそり)の微かな衣擦れさえもが、自分たちの死を祝う嘲笑に聞こえる。 五感が、極限の乾きによって研ぎ澄まされ、同時に狂い始めていた。 風が吹くたびに、砂の粒が肌を削る「ザリ、ザリ」という音が、骨を削る音のように響く。
「母さま……暗くなってきたよ。……お日様、まだあんなに……光ってるのに」
「イシュマエル! 目を閉じちゃダメ!」
少年の身体から、力が抜けていく。 ハガルは狂ったように辺りを見渡した。どこかに水はないか。どこかに影はないか。 だが、そこにあるのは、無慈悲に輝く太陽の「白」と、命を拒絶する砂の「熱」だけだった。
(神様。エル・ロイ。あなたは、私たちを見ておられると言った)
ハガルの心の中で、かつての祈りが悲鳴に変わった。 (今、私たちはここで死にます。あの子は、一度も自由を知らないまま、砂の一粒になろうとしています。これが、あなたの言った『大きな国民』の最期なのですか!?)
空高く、禿鷹がさらに低く旋回を始めた。 その影が、イシュマエルの顔を横切る。 少年の呼吸は浅く、細くなり、砂漠の熱風に吸い込まれていく。
絶望という感情さえも、熱によって蒸発していく。 残ったのは、ただ「乾き」という名の肉体的な地獄と、愛する我が子が目の前で消えていくのを指をくわえて見ているしかない、母の無力さだけだった。
ハガルは、崩れ落ちるように砂の上に座り込んだ。 手のひらに触れる砂の熱さは、まるで生き血を吸う獣の舌のようだった。
これが、ベエル・シェバの彷徨。 神の約束が、砂の中に埋もれかけようとしている、最果ての刻(とき)であった。
第7話:ベエル・シェバの彷徨、完結です。 「水」と「光」という、生命に不可欠なものが「死」の道具へと変わる砂漠の恐ろしさを描写しました。
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