第6話:追放の朝、一袋の水
第6話:追放の朝、一袋の水
夜明け前の空気は、まるですべての生命の熱を吸い取ってしまったかのように冷たく、白んでいた。 カナンを覆う闇がゆっくりと灰色の霧へと溶け出し、砂漠の地平線がカミソリの刃のような鋭さで世界を上下に切り分けている。鳥の声もしない、不気味なほどの静寂。その沈黙を破ったのは、黄金の天幕の重い布が、砂を噛んで「ザ、リ……」と擦れる音だった。
ハガルは、凍てつく土間に膝をついていた。 隣には、まだ眠気の残る目をこすりながら、事態を呑み込めずに立ち尽くすイシュマエルがいる。
「……ハガル」
頭上から降ってきたのは、枯れ葉が地面を転がるような、掠れた声だった。 族長アブラハム。神の友と呼ばれた男は、今、一人の惨めな父親としてそこに立っていた。彼の右手には一塊のパンが、左手には水を満たした革袋が握られている。
「主よ。本当に行くのですか。この子を連れて、この暗がりの向こうへ」
ハガルの声は、冷気に触れて白く濁った。 アブラハムは答えず、ただ震える手でパンの塊をハガルの肩に載せた。そして、水の入った革袋を差し出す。ハガルがそれを受け取った瞬間、腕に「ずしり」とした絶望的な重みがのしかかった。革袋の表面は夜露と中身の冷たさで湿っており、吸い付くような不快な感触が手のひらから全身へと伝わっていく。
「……これだけですか。私たちがこれまでに捧げた歳月の対価は、この一袋の水だけなのですか」
「神が……」アブラハムの声が、激しく震えた。「神が、そうせよと言われた。サラの言うことに聞き従えと。……行け、ハガル。主がお前たちを見守ってくださる」
アブラハムの大きな掌が、ハガルの肩に触れた。その手は、かつて彼女を抱いたときのような熱を失い、死人のように冷たく、激しく小刻みに震えていた。その震動が、ハガルの骨の髄まで響き、彼女の心の中に残っていた最後の未練を粉々に砕いた。
「母さま、冷たいよ。どうして僕たち、外に出るの? まだ朝ごはんの時間じゃないよ」
イシュマエルの無垢な問いかけに、アブラハムは顔を覆った。彼は息子の頭を乱暴に、しかし狂おしいほどの情熱を込めて一度だけ撫でると、背を向けて天幕の中へと戻っていった。
「ザ、ァ……ッ!」
背後で、天幕の厚い布が自重で落ちる、重苦しい音が響いた。 それはハガルとイシュマエルにとって、世界の半分が永久に閉ざされた合図だった。かつて没薬の香りに包まれ、安らぎの場所であったはずの空間が、今は巨大な拒絶の塊となってそこに鎮座している。
「……行きましょう、イシュマエル。振り返ってはダメ。もう、私たちの場所はあそこにはないの」
ハガルは革袋を肩にかけ、息子の手を引いた。 白んでいく荒野へ向かって一歩踏み出したとき、鼻腔を突いたのは、砂漠の冷たい、無機質な匂いだった。家畜の匂いも、煮炊きの煙も、人の営みを告げるあらゆる香りから切り離された、死と隣り合わせの清冽な匂い。
「母さま、父さまは? 追いかけてこないの?」
「お父様は、新しい約束を守らなきゃいけないのよ。私たちは、古い約束の一部。捨てられた枝なの」
ハガルは、自分でも驚くほど冷徹な声を出した。 足の裏に刺さる小石の感触が、一歩ごとに「お前はもう奴隷ですらない」と告げている。一袋の水。それは、広大な砂漠を生き抜くための命の源というよりは、せいぜい一日の命を引き延ばすための、残酷な猶予に過ぎなかった。
背後で、サラの嘲笑が聞こえた気がした。 あるいは、正妻としての権利を勝ち取った彼女が、今頃は温かな毛皮の中で、満足げにため息をついている様子が目に浮かんだ。
空が、灰色から薄紫色へと変わり始める。 イシュマエルの歩みが、次第に重くなっていく。少年は、自分の運命がたった一袋の水に託されたことをまだ理解していないが、母の手にこもる異常な力に怯えていた。
「母さま。父さまからもらったこのお水、いつ飲んでいいの?」
「……本当に、どうしても我慢できなくなったときよ。それまでは、唾を飲んで耐えなさい。いいわね、イシュマエル」
ハガルは、肩に食い込む革袋の重みを感じながら、前方の何も見えない地平線を見つめた。 白んだ朝の光が、彼女たちの影を砂の上に長く、薄く引き伸ばしていく。 天幕はもう見えない。 あるのは、風が砂を撫でる音と、自分たちの心臓の音だけだった。
(エル・ロイ……私を見ておられる神。あなたは、今も私たちを見ておられるのですか)
ハガルの乾いた瞳に、朝露のような涙が浮かんだが、それは地面に落ちる前に冷たい風にさらわれ、砂の中へと消えていった。
これが、長い彷徨の始まり。 「家族」という名の人為的な天幕を剥ぎ取られ、剥き出しの「命」として荒野へ投げ出された、追放の朝であった。
お読みいただきありがとうございます。 第6話:追放の朝、一袋の水、完結です。 別れの朝の静寂と、アブラハムの震える手の感触、そして閉ざされた天幕の音が、ハガルの心に刻まれた「絶望」として描写しました。
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