第5話:イシュマエルの笑い

第5話:イシュマエルの笑い


 その日は、天までもが笑っているかのような、透き通った青空が広がっていた。  イサクが乳離れをする。それはこの時代、子供が無事に乳児期を脱したことを祝う、最高にめでたい通過儀礼だった。


 野営地には、朝から香ばしいパンを焼く匂いが立ち込め、大鍋では香辛料をたっぷりと効かせた羊の煮込みが、ボコボコと音を立てて脂の混じった湯気を吹き上げていた。 「さあ、飲め! 食え! 族長アブラハムの息子、イサクの成長を祝おうではないか!」  屈強な男たちが、発酵したぶどう酒の入った皮袋を高く掲げ、喉を鳴らして飲み干す。人々の陽気な笑い声は、砂漠の熱風に混ざり、天幕のあちこちを陽気なリズムで叩いていた。


 ハガルは、天幕の陰で、冷えたイチジクを皿に並べながら、その喧騒をどこか他人事のように眺めていた。胃の奥が、朝からキリキリと不気味な痛みを訴えている。 (……何かが、おかしい)  五感が、不穏な空気を察知して警告を発していた。


 そのときだった。  祝宴の中央、子供たちが集まる砂場の方から、一際高い少年の笑い声が聞こえてきた。


「あはは! 見てよイサク、お前は本当にどんくさいんだから!」


 ハガルの心臓がドクリと跳ねた。イシュマエルの声だ。  十七歳になったイシュマエルは、すっかり背が伸び、日焼けした肌には若々しい筋肉が躍動していた。彼は、まだおぼつかない足取りで歩く三歳の異母弟イサクの前に立ちはだかり、ひょい、と彼が大切に持っていた小さな木彫りの羊を高く掲げた。


「ほら、取ってみなよ! もっと高く飛ばなきゃダメだぞ、約束の子!」


 イシュマエルに悪意はなかった。それは、年上の兄が幼い弟を「いじる」ような、砂漠の少年たちによく見られる光景に過ぎなかった。イシュマエルは声を立てて笑い、イサクもまた、その「遊び」を喜んでいるかのように、小さな手を空へ向かって伸ばし、キャッキャと声を上げていた。


 だが、その笑い声を聞いた瞬間。  祝宴の空気は、一瞬にして北風の氷点下に叩き落とされた。


「――イシュマエルッ!!」


 耳を劈くような、鋭利な悲鳴。  それは叫びというよりは、獲物を切り裂く鷹の爪のようだった。  サラだ。  彼女は、まるで地獄から這い出してきた復讐の女神のような形相で、祝宴の輪を割り、二人の方へ突進してきた。


「その汚れた手で、我が子に触れるな! 汚らわしい!」


 サラの叫び声に、賑やかだった男たちの談笑も、女たちの歌声も、一瞬にして凍りついた。焚き火のパチパチという音だけが、不自然なほど大きく響く。


「サラ様……僕はただ、イサクと遊んでいただけだ」  イシュマエルが、掲げていた木彫りの羊をゆっくりと下ろし、戸惑いの表情を浮かべた。彼の瞳には、まだ遊びの余韻の「笑い」が残っていた。だが、それがサラの怒りに火をつけた。


「笑っているのか? 私の息子を嘲笑い、その地位を脅かそうとしているのか! この、女奴隷(はしため)の子が!」


 サラの瞳は、狂気にも似た冷徹な光を放っていた。彼女はイサクを乱暴に抱き寄せると、イシュマエルを激しく突き飛ばした。イシュマエルが砂の上に尻餅をつく。その瞬間、ハガルの背中を嫌な汗が伝い、胃の痛みが頂点に達した。


「ハガルッ! どこにいる、ハガル!」


 呼ばれる前に、ハガルは震える足で主人の前に這い出していた。 「……ここに、ここにおります、サラ様」


「この放埓な息子を連れて失せなさい! アブラハム、アブラハム様!」  サラは、駆け寄ってきたアブラハムの胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。その指先は、嫉妬と憎悪で真っ白に震えていた。


「見てください! あの女の息子が、我が子を嘲笑いました! あの下賤な血筋の者が、約束の継承者であるイサクを弄ぶのを、私はこの目で見ました!」


「サラ、落ち着くんだ。イシュマエルはただ、弟を可愛がって……」  アブラハムの声は弱々しく、狼狽に満ちていた。彼は砂の上に座り込むイシュマエルに、哀れみと愛の混ざった視線を投げた。だが、サラの決意はもう、誰にも止められなかった。


「可愛がる? いいえ、あれは『嘲笑』です! この女奴隷の子は、我が子イサクと共に相続を預かるべきではありません! あの女と、あの息子を、今すぐ追い出してください!」


 追い出せ。  その言葉が、熱風に乗って野営地全体に響き渡った。  ハガルは、自分の意識が遠のくのを感じた。鼻腔には、焦げ付いた羊の肉の臭いと、砂埃の苦い味が立ち込めている。


(……ああ、ついに、この時が来たのだ)


 サラの瞳の奥にある、冷酷な決意。それは数年前のイサク誕生の夜に見たものよりも、さらに深く、暗く、完成されていた。  ハガルは、砂にまみれたイシュマエルの手を取った。少年の大きな手は、怒りと恐怖で硬く握りしめられていた。


「母さま……僕、何も悪いことしてないよ」  イシュマエルの掠れた声が、ハガルの胸をかきむしる。 「わかってる。わかっているわ、イシュマエル……」


 ハガルはアブラハムを見た。  一族の長であり、かつて自分を熱く抱き、息子を「光」と呼んだ男。  だが、今のアブラハムは、怒り狂う正妻と、泣き叫ぶイサクの前で、ただ肩を落として立ち尽くしていた。その沈黙が、ハガルにとってはどんな鞭打ちよりも痛かった。


 祝宴の賑やかさは、もう戻らなかった。  皿の上の蜜は乾燥し、ぶどう酒の匂いは酸っぱく変質し、人々の視線は「厄介者」を見るそれへと変わっていった。


 ハガルの胃の痛みは、いつしか鈍い「覚悟」へと変わっていた。  背中を流れる汗が、夜の冷気で冷たく冷えていく。


 これが、黄金の天幕で過ごす最後の祝宴。  イシュマエルの笑いが、追放の扉を開く「最後の鍵」となったのである。


お読みいただきありがとうございます。 第5話:イシュマエルの笑い、完了です。 祝宴の光と、サラの激昂という闇。イシュマエルの無邪気さが、サラの「聖母としての狂気」を呼び覚ましてしまう残酷な転換点を描きました。


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