第4話:約束の子の産声
第4話:約束の子の産声
野営地は、狂ったような歓喜に包まれていた。 天幕のあちこちで焚き火が爆ぜ、焼かれた羊の脂の香ばしい匂いが砂漠の夜風に乗って流れる。大皿に盛られたナツメヤシの実は、滴るような蜜を纏って琥珀色に輝き、振る舞われた乳の白さは、月の光を撥ね返して純白の輝きを放っていた。
「奇跡だ! 神が、あのご高齢のサラ様に、真実の約束を果たされたのだ!」
人々の叫び声が、ハガルの耳には遠い国の出来事のように聞こえた。 彼女は、黄金の天幕の隅、柱の影にひっそりと立っていた。その手には、まだ十代半ばに差し掛かったばかりの息子、イシュマエルの肩を強く掴む指先があった。
「母さま。みんな、どうしてあんなに騒いでいるの?」
イシュマエルの声は、成長期特有の少し掠れた、それでいて野性味のある響きを持っていた。彼は不思議そうに、宴の中心を見つめている。そこには、数えきれないほどの贈り物の山と、そして――一人の赤ん坊を抱いたアブラハムがいた。
「……イサクが、生まれたのよ。イシュマエル」
その名を口にした瞬間、ハガルの喉の奥に、苦い砂を噛んだような後味が広がった。 イサク。笑い、という意味の名を持つ、正妻サラが産んだ「約束の子」。
人混みをかき分け、一人の女性がゆっくりと姿を現した。 サラだ。 九十歳を過ぎたはずの彼女の肌は、産後の疲労を超えた、どこか神がかり的な艶を帯びていた。彼女は、贅を尽くした青い衣の裾をなびかせ、ハガルの目の前で足を止めた。
辺りの喧騒が、しんと静まり返る。 サラの瞳が、ハガルを射抜いた。 それはかつての、ただ激しいだけの嫉妬ではなかった。氷の底に沈んだナイフのような、静かで、それでいて一点の曇りもない「決意」の光だった。
「ハガル。見ておいでなさい。これが、真実の世継ぎです」
サラの声は低く、しかし野営地の隅々にまで届くほど澄んでいた。彼女はハガルの胸元を、そしてその隣に立つイシュマエルを、まるで塵でも見るかのような冷淡な眼差しで一瞥した。
「……おめでとうございます、サラ様」
ハガルは、膝を折って礼をした。屈辱で指先が震える。 かつて自分がイシュマエルを産んだとき、アブラハムはこの子を「私のすべて」と呼んだ。けれど今、アブラハムの腕の中にいるのはイサクだ。イシュマエルに向ける視線とは違う、何か、神聖な義務を果たすような、重みのある愛がそこには流れていた。
「乳を飲みなさい、イサク。蜜を舐めなさい、私の誇り」
サラが赤子の口元に、蜜に浸した指を差し出す。赤子がそれを吸う小さな音が、ハガルの神経を逆なでするように響いた。 祝宴の空気は甘い。乳と蜜、そして勝利した者の高笑い。 けれど、その甘さの背後で、ハガルは確かに「溝」の深まりを感じていた。
正妻の子と、侍女の子。 同じ父を持ちながら、決して混じり合うことのない二つの血筋。
「母さま、手が痛いよ」
イシュマエルが小さく声を漏らした。ハガルが無意識に彼の肩を握り締めすぎていたのだ。彼女は慌てて手を離し、息子の乱れた髪を整えた。
「ごめんね、イシュマエル。……あなたは、あの子と一緒に遊んではいけないわ」
「どうして? 弟だろう? 僕、弓の射方を教えてあげたいんだ」
イシュマエルの無垢な瞳が、ハガルの胸を突き刺す。 彼はまだ知らないのだ。砂漠の法則において、一人の王座に二人の後継者は必要ないということを。
「いいえ。あなたは、あなたの道を歩むの。あの子とは、住む世界が違うのよ」
ハガルの言葉を遮るように、サラが再び口を開いた。今度はアブラハムに向かって。
「アブラハム。この喜びの席に、ふさわしくない影が差しています。いつまで、あの女(ハガル)とその息子を、わが子の側に置いておくつもりですか?」
アブラハムの顔が、苦渋に歪んだ。彼は愛おしそうにイサクを見つめ、それから、遠くに立つイシュマエルに視線を投げた。
「サラ、今は祝宴だ。そんな殺生な話は……」
「殺生? いいえ、これは秩序です」
サラの言葉は、宴の熱気を切り裂く冬の木枯らしだった。 ハガルは、自分の肌が粟立つのを感じた。サラの瞳に宿るあの「冷酷な決意」は、もはや言葉では覆せないほどに固まっていた。
宴の火が揺れるたび、ハガルとイシュマエルの影が長く、砂の上に伸びる。 かつて御使いが「彼は大きな国民となる」と約束してくれた。けれど今、この黄金の天幕の中で、自分たちは異物として、排除されるべき汚れとして扱われていた。
ハガルは、イシュマエルの手を引いて、宴の輪から離れた。 背後からは、再び大きな笑い声が湧き上がる。イサクの誕生を祝う、残酷なまでの歓喜の歌。
「……見ていなさい、イシュマエル」
ハガルは、暗い荒野の方を見つめながら、低く呟いた。 「私たちは、ここでは『影』に過ぎない。けれど、神様が私たちを見ておられる。この乾いた風の向こうに、あなただけの王国があるはずよ」
ハガルの瞳には、サラとは別の、しかし同じくらいに激しい「母としての執念」が灯っていた。 祝宴の甘い蜜の匂いは、いつしかハガルの鼻腔で、嵐の前の、湿った泥の匂いへと変わっていた。
これが、逃れられぬ追放へのカウントダウン。 侍女の息子としての、最後の「家族」の夜であった。
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