第1話:黄金の天幕、静かなる火種
第1話:黄金の天幕、静かなる火種
夕闇がカナンの地を深い紺青に染め上げると、アブラハムの野営地には幾十もの天幕が、巨大な獣の群れのようにうずくまった。
その中でもひときわ巨大で、黄金の刺繍が揺れる主人の天幕。その中には、むせるような没薬(ミルラ)の香りが立ち込めていた。エジプトの湿った泥の匂いを知るハガルにとって、この乾燥した、それでいて贅沢な香料の匂いは、砂漠の支配者たちの「権力」そのものの匂いだった。
「……ハガル、こっちへ」
低く、地鳴りのようなアブラハムの声が、ハガルの鼓膜を震わせた。 ハガルは膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。目の前には、数えきれない羊の群れと僕(しもべ)を従える族長アブラハムがいる。その逞しい腕は、長年の放浪と労働で鍛えられ、浮き出た血管が一本一本、命の拍動を刻んでいるようだった。
「主よ。私は、あなたの侍女に過ぎません」
「サラが望んだことだ。我が血筋を絶やさぬために。お前は……今日から、私の妻となる」
アブラハムの手が、ハガルの肩に触れた。その掌の熱さは、ハガルがこれまで仕えてきた女主人サラの、冷え切った指先とは正反対のものだった。じわりと、麻の衣越しに伝わってくる男の体温。それは、エジプトの奴隷であった彼女が、生まれて初めて触れた「尊厳」という名の熱だった。
天幕の入り口の隙間から、月光とともに冷たい視線が突き刺さっているのを、ハガルは背中で感じていた。
女主人のサラだ。 彼女は今、どんな顔をして見つめているだろうか。長年、不妊の呪いに苦しみ、ついに自分の侍女を夫の褥(しとね)に差し出す決断をした、あの誇り高き女性。
「……ハガル。お前が、私に代わって『約束』を果たすのです」
昼間、サラがハガルの耳元で囁いた声が蘇る。その吐息は、氷の欠片のように冷たかった。けれど今、アブラハムの大きな腕に抱き寄せられながら、ハガルの心には、毒のように甘い「傲慢」が芽生え始めていた。
(私は、あの方に選ばれた。サラ様がなし得なかったことを、私が成し遂げるのだ)
没薬の香りが、ハガルの意識を朦朧とさせる。アブラハムの顎髭が首筋に触れ、その剛毛のチクリとした感触が、彼女を侍女から「女」へと書き換えていく。ハガルは目を閉じ、サラの視線を振り払うように、主人の胸の鼓動に耳を澄ませた。
――それが、地獄の始まりとも知らずに。
数週間後。 ハガルの腹の中に、新しい命が宿ったことが判明した瞬間、天幕の空気は一変した。 朝の光の中で、ハガルは自分の腹を愛おしそうに撫で、わざとサラの目に入るように、ゆっくりと歩いた。
「サラ様、気分が優れません。お腹の子が、少しばかり騒ぐようでございます」
ハガルの声には、隠しきれない優越感が混じっていた。 サラが持っていた銀の杯が、ガチャンと音を立てて床に落ちた。ぶどう酒が血のように赤いシミを作り、酸っぱい匂いが辺りに広がった。
「……ハガル。お前、今なんと言った?」
サラの声は、低く、震えていた。その瞳は怒りに燃え、射抜くような嫉妬が、ハガルの肌を物理的な痛みとなって襲った。
「聞こえませんでしたか? アブラハム様の子が、ここにいると言ったのです」
「黙りなさい! この、不遜な女……!」
次の瞬間、サラの平手打ちがハガルの頬を打った。 乾いた音。衝撃。口の中に広がる、鉄のような血の味。 サラの顔は、嫉妬という名の怪物に変貌していた。
「アブラハム様! 聞いてください! あの女が、私を嘲笑いました! 私を侮辱したのです!」
サラの叫び声が野営地に響き渡る。アブラハムは困惑した表情で現れたが、怒り狂う正妻の迫力に、ただ立ち尽くすしかなかった。
「お前の侍女だ、好きにするがいい」
アブラハムが吐き捨てたその一言は、ハガルの心に、冷たい井戸水を浴びせられたような絶望をもたらした。昨日まで自分を抱き、熱を与えてくれた男が、今は目を逸らしている。
その夜から、ハガルの生活は一変した。 「水を汲んでこい、この泥の女め!」 「膝をつけ! 主人を敬う心を忘れたか!」
サラの虐待は苛烈を極めた。 ハガルが汲んできた水桶をわざと蹴り倒し、濡れた地面に這いつくばらせる。彼女の背中には、鞭の跡が刻まれ、その痛みは夜、眠りにつく瞬間まで脈打った。
(ああ、お腹の子が死んでしまう……。あの没薬の香りは、今はただ、死を待つ遺体の匂いにしか感じられない)
深夜。ハガルは腫れ上がった顔を上げ、天幕を抜け出した。 足の裏に刺さる小石の痛み。遠くで吠えるジャッカルの声。 彼女の手元には、わずかなパンと、頼りない革袋の水しかない。
「逃げよう……。ここではない、どこかへ。砂漠の果てに、私を見てくれる神がいるのなら」
ハガルは、暗黒の荒野へと足を踏み出した。 背後にある黄金の天幕は、もはや彼女の家ではなく、彼女を焼き尽くそうとする「火種」でしかなかった。
風が、彼女の髪を乱暴に掻き揚げた。 砂混じりの風が、目と喉を焼く。 ハガルは、自分の腹を抱え、絶望という名の闇の中へ、ただひたすらに走り続けた。
これが、ハガルとイシュマエル――追放の物語の、最初の「フラグ」であった。
お読みいただきありがとうございます。 第1話:黄金の天幕、静かなる火種、いかがでしたでしょうか。 アブラハムの熱とサラの冷酷な視線、そしてハガルの心の変遷を五感で描写しました。
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