第2話:泉のほとりの御使い

第2話:泉のほとりの御使い


 天幕の温もりも、没薬の残り香も、すべては遠い過去の幻となった。  ハガルの足の裏を焼いていた昼の砂は、夜の訪れとともに鋭い氷の粒へと姿を変えていた。シュル、シュルと風が砂を噛む音が、絶望した女の耳元で死の呪文のように鳴り響く。


「……寒い。……お腹が、痛い」


 ハガルは自分の腹を抱え、砂丘の窪みに身を沈めた。喉は焼けるように乾き、吐き出す息さえも砂混じりだ。エジプトの豊かなナイルを夢に見る。あのみだらなほどに豊かな水の匂い、湿った泥の感触。けれど今、彼女の周囲にあるのは、命を拒絶する無彩色の闇だけだった。


(サラ様。あなたは、満足ですか。私がこうして、砂の上で干からびて死ぬのを……)


 憎しみが、かろうじて彼女の体温を繋ぎ止めていた。だが、意識が混濁し始めたそのとき、風の音が変わった。  砂が鳴る音の合間に、場違いな、けれど狂おしいほどに透き通った音が混ざる。


 ――チョロ、チョロ。  ――ピチャリ。


「……水? 嘘よ、こんな場所に」


 ハガルは這うようにして音のする方へ進んだ。シュル、という砂の音ではない。もっと重く、もっと柔らかな、生命の鼓動。  岩陰を曲がった瞬間、彼女の瞳に「青」が飛び込んできた。砂漠の底から湧き出る、小さな、けれど確かな泉。シュルの道にある泉のほとり。


 ハガルはなりふり構わず顔を水面に突っ込んだ。  ひやり、とした驚くべき冷たさが鼻腔を突き、喉の渇きを貫いた。 「……ああ……っ!」  水が喉を通り、胃に落ちるたび、自分の魂に色が戻っていくのがわかった。泉の匂いは無臭だ。けれど、泥にまみれた彼女の感覚には、どんな香料よりも甘く、聖なる香りに感じられた。


 そのときだった。


 「ハガル。サラの侍女、ハガルよ」


 背後から響いたのは、声というよりは「振動」だった。  ハガルが振り向こうとした瞬間、視界が真っ白に塗り潰された。  それは太陽の光よりも強く、雷鳴よりも鋭い光の「圧」だった。網膜が焼き切れるような眩しさに、ハガルは悲鳴を上げて地に伏せた。


「……どなたですか! 私を殺しに来たのですか! サラ様の差し金ですか!」


「お前はどこから来て、どこへ行こうとしているのか」


 光の中から降ってくる言葉は、冷たい泉の水がそのまま音になったように、彼女の心臓を直撃した。光の圧力で、大気が震えている。ハガルの肌は、何千本もの針で刺されたようにチリチリと波打った。


「……私は、女主人サラのもとから逃げてきました。あの方は、私を、お腹の子供を……」


「女主人のもとに帰り、その手に身を任せなさい」


 その言葉に、ハガルは激しく首を振った。額を砂にこすりつけ、叫ぶ。 「嫌です! あの天幕は地獄です! 私を蔑み、打ち叩くあの人のもとへ戻れというのですか! 私は、死んだほうがマシです!」


 一瞬、光の圧が増した。ハガルは息ができなくなり、心臓が爆ぜるかと思った。畏怖。それは、人間の理解を超えた「絶対的な力」に対する、本能的な震えだった。


「ハガル。私はお前の子孫を、数えきれないほどに増やそう」


 光の温度が、刺すような冷たさから、包み込むような熱へと変わった。没薬の香りではない。もっと根源的な、宇宙の始まりのような静寂の香りが鼻をくすぐる。


「お前は身ごもっている。やがて息子を産むだろう。その名をイシュマエル(神は聞き届けられた)と名付けなさい。主がお前の苦しみを聞き届けられたからだ」


 イシュマエル。  その名が発せられた瞬間、ハガルの腹の中で、小さな命が「トクン」とはっきりと跳ねた。それは、これまでの虐待に耐え忍んでいた頼りない胎動ではなく、岩をも砕く野ロバのような、力強い躍動だった。


「……イシュマエル。神様が、私の声を……あんな惨めな叫びを、聞いてくださったのですか」


 ハガルは、光を直視することはできなかった。けれど、自分の内側に、決して消えない「火」が灯ったのを感じた。


「彼は野ロバのような男となり、その手はすべての人に向けられ、すべての人の手も彼に向けられる。彼は、すべての兄弟に敵対して住むだろう」


 それは祝福であると同時に、過酷な運命の宣告でもあった。けれど、ハガルにとってそれは「自由」の約束だった。誰の奴隷でもない、荒野を駆ける野ロバ。私の息子。


 光がゆっくりと収束し、夜の闇が戻ってきた。  けれど、ハガルの目に見える景色は、さっきまでとは違っていた。  泉の水は月光を反射して銀色に輝き、砂の一粒一粒が、神の視線を受けて生きているように見えた。


「……あなたは、『エル・ロイ』。私を見ておられる神」


 ハガルは、震える手で泉の水を掬い、再び自分の顔を洗った。  冷たい水が、サラに打たれた頬の腫れを鎮めていく。  屈辱。痛み。不当な扱い。それらは何も変わっていない。天幕に戻れば、またサラの冷酷な視線と、アブラハムの沈黙が待っているだろう。


 けれど、ハガルの心には、もう卑屈さはなかった。 「……戻ります。私は、あなたの言葉に従って」


 彼女は立ち上がった。足取りは重い。けれど、一歩踏み出すたびに、砂を踏む音が力強く響く。  背中を丸めて逃げてきた道を、彼女は背筋を伸ばして歩き始めた。


(サラ様。私は戻ります。けれど、以前の私ではありません。私は、神に見守られた、王の母として戻るのです)


 東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。  朝の冷気がハガルの喉を通り、新しい命の鼓動が、彼女の歩みを支えていた。


 これが、ハガルの二度目の旅。屈辱を「約束」に変えるための、帰還だった。


お読みいただきありがとうございます。 第2話:泉のほとりの御使い、完結です。 砂漠の極限状態と、神という超常的な存在に出会ったハガルの魂の震えを描きました。


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