第2話
冠省、考えてみれば君に手紙を書くのはこれが初めてだね。そしておそらく最後の手紙になるだろう。これを書くことにどんな意味があるのか。なぜ僕は今これを君に宛てて書こうとしているのかと何度も自問した。言葉は単なるコミュニケーションのツールではなく、考えを深めるためのものでもある。僕は聞き役に君を設定して語ることで、考えをまとめようとしているのだ。最後までこれを書けないかもしれないし、投函を思い留まるかもしれない。だがもし今君がこれを読んでいるなら、僕は何とか最後まで書きおおせて、君に託したということになる。違うな、こんなことを書くつもりじゃなかった。僕は何を措いても、まずは君への感謝から始めなくてはいけなかったのに。
僕は高校を中退している。その後はお定まりの引きこもりになった。さすがにこのままではマズいと思って、猛勉強して高卒認定を取った。それから誰一人知り合いのいない、地方の国立大学を選んで何とか滑り込むことが出来たのだ。それからもずっと精神的には不安定なままだった。オーバードーズとやらで、目が覚めたら病院に担ぎ込まれていたこともあった。どうにか安定し始めたのは君と出会った頃からだ。
周りにはどう見えていたかわからないが、圧倒的に僕の方が君に依存していたんだ。君がいなければ、僕は大学を卒業することもできなかっただろう。だから君は僕の恩人なんだ。本当は君を愛したかった。だが僕にはそんな資格はない。僕が君と家庭を持つ未来など存在し得ないんだ。だから必死に押し止めていた。強い衝動を感じた時は、ピンで指の先や付け根を刺してその痛みに紛らわせる。僕はこれまでもずっとそうやってきたんだ。
同性愛者を忌避する傾向はいまだに社会に根強いが、それでも少しずつ認知されてきている。性不適合者にとっても未来は開けてきた。嗜虐やら被虐やらという性癖でさえ、他に迷惑を及ぼさない限りは許容されている。だが、絶対に容認されない性指向というものがあるのだ。僕はその傾向があると何年も前から指摘され続けてきた。
高校二年の時のことだ。ふと立ち寄った公園で男の子が蹲って泣いているのを見て、思わず声をかけた。とてもかわいい十歳くらいの子だった。お腹が空いていそうだったのでコンビニでパンやお菓子を買って与えた。すると僕にすっかり懐いて、家までついてきてしまったんだ。たまたま家には他に誰もいなかったので、僕の部屋でお菓子を食べたり、ゲームをしたりして過ごした。夕方になって帰るように促したが、帰りたくないと言って泣く。そのうちに家族が帰ってきた。僕はこのことを親に言い出すことが出来なくて、彼を部屋に匿うみたいになってしまった。結局その晩は僕のベッドで彼と一緒に寝た。
翌朝、男の子と一緒に寝ている僕を発見した時の母の顔は忘れられない。驚愕、嫌悪、軽蔑、憐憫…、それらが全部混じり合ったような表情だった。そこからの両親の行動はとても迅速で、早速その子の親を捜し出して訪ねると、平身低頭して謝罪した。先方も事を大きくすることは避けたいと言って、謝罪を受け入れたという。後から思うと、あの子は家で虐待を受けていたに違いない。その発覚を恐れたんだろう。それですべて落着となるはずだったのだが、そうはならなかった。その男の子の姉が、たまたま僕と同じ高校に通っていたんだ。彼女はネットの掲示板に、僕の実名を挙げて「性犯罪者」「幼児性愛者」などと書き込んだらしい。それ以来周りの空気が一変した。親しかったはずの友達が誰も声を掛けてくれなくなった。「キモい」「死ね」「ペド野郎」などと机や持ち物に落書きされたりするようにもなった。生活指導の教員から呼び出されて、細かく事情を聴かれたりもした。それを機に僕は学校に行かなくなり、そのまま退学したんだ。
君も知ってる通り、大学では子ども相手のボランティアサークルに入った。自分が小児性愛者だとは信じていなかったし、仮にその傾向があったとしても必ず克服できると思っていたからだ。だが現実は思った以上に厳しいものだった。僕は子供たちを傷つけないかわりに、自分を傷つけるしかなかった。そんな時、僕の前に君が現れたんだ。
君は不思議な人だ。君のおかげで、僕は心の安定を取り戻した。君がそばにいてくれる限り、僕は大丈夫だと思えた。君と家庭を持って生活を築いていきたいと、虫のいいことを考えたりもした。だけど無理なんだ。いくら君だって、四六時中僕のそばにいてくれることはできないからね。僕は将来の自分の子どもにさえ、手を出してしまうかもしれないような男なのだ。まずは君の力を借りずに、自活できるようにならなくてはいけない。もしそれが出来たら、改めて君の前に姿を現そうと決意したんだ。
ここまで書くのに何枚も便箋を無駄にしてしまった。もうここから後は短く済まそうと思う。こちらに戻ってきて新しい仕事にもすぐ慣れたが、平穏な日々は長くは続かなかった。まるで写し絵を見ているように、高二の時と同じようなことが起きた。いや、起こしてしまったのは僕だ。今度は前回よりもずっと大事になった。僕は警察に連行され、そのまま拘留された。その後、自死の懼れがあるとして措置入院させられた。どうやら起訴は免れたようだが、会社は辞めざるを得なかった。あの時も今回も、僕は誓って子どもを傷つけるようなことはしていない。それでも、まるで進歩していない自分の不甲斐なさに絶望した。やはり君から離れたのがいけなかったのだろうか。今は経過観察中で、また実家に舞い戻っている。短い間に両親はすっかり老け込んでしまった。
僕はもう疲れてしまった。一つのことを考え続けるのもしんどくなった。君のことを思い出す時だけが、そんな日々の中でのわずかな光なんだ。君に感謝の言葉を一度も伝えていなかったことに気付いた。だから今この手紙を書いている。君には本当に感謝しているんだ。今更ながらだが、僕の前に現れてくれてありがとう。
草々
谷内杏子さま
杏子は封筒の消印を見た。三日前の日付になっている。とにかく征木に会いたいと思った。東京は確かに遠いが、地球の裏側というわけではない。在来線と新幹線を乗り継ぐのがいいか、空路にするか。その場合、持ち合わせは足りるだろうか。だが、東京の何処に行けばいいのか、肝心の征木の居場所がわからない。消印の局名は掠れていて読めなかった。かろうじて三文字なことはわかったが、そもそも彼女は東京の地理に明るくなかった。大輔なら知っているかもしれないと思った。彼は以前、手を尽くして征木と連絡を取ろうとしていたことがあったのだ。律儀な彼は、杏子と交際することを征木に報告しようとしていた。それを杏子が止めたのだ。止めてよかったと今更のように思った。この状況を大輔にうまく説明することは難しい。だが今は征木の居場所を知るのが先決だ。
電話を掛けようと机の上に置いたスマホに手を伸ばした。途端にスマホが鳴動したので驚いてその手を引いた。ディスプレイには「ちいさいにいちゃん」と表示されている。次兄だ。いつもはショートメールなのに、電話は珍しい。応答のアイコンをタップすると次兄の声が耳に飛び込んできた。
「ああよかった。杏子、落ち着いて聞けよ。母さんが倒れたんだ。市民病院に運ばれたって。俺は今向かってるところだ。杏子もとにかくすぐ来てくれ」
市民病院の待合室に入ると、すぐに次兄が大きくこちらに手を振っているのが見えた。ずっと外から入ってくる人を見張っていたようだ。駆け寄って尋ねた。「ママは?」
「今ICUに入ってる。兄貴はまだあと一時間くらいはかかるって」
長兄は結婚して、隣県に住んでいるのだ。
「一体、何があったのよ?」
「母さん、友達と店で食事していたんだけど、急になんだか大汗をかいて、暑い暑い言い出して、そのうち呂律が回らなくなったって。で、いきなりテーブルに突っ伏しちゃったもんで、これはただ事じゃないってなって、店の人が救急車を呼んでくれたんだって」
次兄にもそれ以上のことはわからないらしい。これでは当面できることは何もない。杏子はベンチに座るとスマホを取り出して、大輔にLINEのメッセージを送った。
「征木先輩の実家の住所、今わかる?」
すぐに返事が来た。「わかると思うけど、どうして?」
「説明は後でする とにかく教えてほしい」
住所が送られてきた。さっきは読めなかった消印の局名とも一致するようだ。だが、この住所を訪ねて行くにしても今はまだ身動きが取れない。
彼に会ったとして、どんな言葉を掛ければいいのか。彼はまるで杏子が人を癒す特殊能力があるかのように書いていたが、そんなものがないことは自分が一番知っている。たまたま彼が安定しているタイミングで自分と出会ったというだけだろう。それに、彼も書いていたように四六時中彼のそばにいることはできないのだ。
愛とは打算的なものだ。彼女は大輔との今の幸せを失いたくないのだった。征木に会ったところで、彼の愛を受け入れることが出来なければ、さらに深く彼を傷つけてしまうかもしれない。理性では分かっている。それでもなお、自分は征木に会わなくてはいけないとも思うのだ。
いかにもベテラン、という空気を醸し出す看護士が次兄に近づいて来た。「先生からご説明があります」
杏子は次兄に続いて、案内された診察室に入った。主治医は胸のネームプレートを示しながら自己紹介した。それからキーボードを操作してCT画像を呼び出すと、
「お母さんは、脳幹、脳の幹と書きます、この名前だけでも大事なところだと分かると思うんですが、その真ん中の橋というところの血管が破れてしまったんですね。脳幹出血です。以前からすごく頭が痛いとか、血圧が異常に高いとか、何らかの予兆はあったはずだと思うんですがね。発症後すぐに受診することが出来た点だけはまあ良かったんですが……」
「死ぬようなことはないんですよね」と次兄が訊く。医師はそれには直接答えず、
「この病気、手術などは出来ないんです。出血を抑えるために脳圧をコントロールします。もちろん出来るだけの手は尽くしますが、今日明日がヤマでしょうね」とだけ言った。先ほどの看護士が、
「今は落ち着いていますから、ご家族の方はいったんご自宅に戻ってください。これ全部お母さんが身に着けていたものですから、持ち帰ってください」と母の衣類が入ったビニール袋を、杏子に渡して寄越した。
母は三日目に一般病棟に移った。杏子が病室のスライドドアを開けると、パーティションの奥から母の声が聞こえてきた。会話の相手は誰だろう。驚くほど元気な声だった。
「…だから大げさなんだって。ICUだって、たまたまベッドの用意が出来てなくて、ICUに丁度空きがあったから入ってもらっただけだって、看護士さんが言ってるの聞いたもの。大体私がそんなに簡単に死ぬはずがないでしょ。私、亡くなったパパの分まで長生きするって決めてるんだから」
その時、ポケットの中のスマホが振動した。杏子は廊下に出た。大輔から電話だった。
「杏子さん、僕も今聞いて驚いているところなんだけど。…征木先輩、亡くなったらしいんだ」
杏子は両足を掴まれて、全身が床下に引き摺り込まれるような気がした。どうにか声を絞り出す。
「征木先輩、自殺だったの?」
「いや、事故だって聞いた。先輩は東京に帰ってから鬱病を発症して、会社も辞めていたらしいんだけど……」
「……」
「ずっと自宅で療養していたんだけど、散歩に出た時に運悪く前方不注視の車にはねられたってことらしいんだ。…杏子さん、聞こえてる?」
それはつまり、誰かの意志が働いた結果、そういうストーリーに落ち着いたということなのだろうと彼女は思った。大輔にはあの手紙を読ませていない。彼は何も知らないのだ。
征木圭吾にはもう二度と会えないのだ。母を置いてすぐに会いに行けばよかった。彼もまた父と同じように、地球の裏側に消えてしまったのだ。そう杏子は思った。
地球の裏側 秋田清 @kiyoshiateeka
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