地球の裏側
秋田清
第1話
冠省? これってどういう意味だろうと杏子は思った。読みは「かんしょう」でいいのだろうか。スマホを取り出して打ってみる。予測変換では「冠省」という文字列は出てこなかった。そこで「かんむり」「はぶく」と打って「冠省」を出した。すると「手紙で、時候の挨拶などの前文を省略すること、『前略』とほぼ同じ意味」と出た。
肉筆の手紙をもらうなど小学校以来ではないだろうか。今では友人たちとのやり取りはもっぱらLINEだし、大学からの連絡はEメールだ。郵便受けに入っていたのは他には広告やDMばかりで、当然すべて印刷された活字のものだった。
杏子は改めて便箋に目を落とした。文面の最後には「冠省」を受ける言葉なのだろう、「草々」と書かれ、後は「谷内杏子さま」とあるだけで、差出人の名前はない。封筒の裏にも名前はなかった。だが青いインクで書かれた右肩上がりの角ばった文字には、確かに見覚えがある。
「…征木先輩?」
征木圭吾は今年の三月に大学を卒業した。学部は違うが、彼女が在籍するサークルの代表を務めていた人物である。幼稚園や保育園、地域の福祉センターなどで人形劇の公演を行う「ピグマリオン」という名のボランティアサークルだ。初めて会った時から彼は年齢不詳だったが、実は二回も留年しており、その前に浪人も経験していたようで、杏子より五歳も上なのだった。杏子は彼の筆跡の癖もよく知るくらいの距離感で学生生活の内の二年間を過ごした。彼の隣がサークルの会合等での定位置だったのだ。周囲の誰もが二人は交際しているものだと思っていただろう。事実、サークルの後輩たちからは「征木先輩の彼女さん」というような言われ方をすることもよくあったし、当の征木もそれを否定しなかった。
彼女自身そのように錯覚したこともあったが、事実はやはり違うのだった。一緒に映画やライブ等に出かけるのは日常のことだったし、二人だけで食事したり、サシ飲みしたことも数えきれないほどあるが、それ以上の関係には一度もならなかった。手を握られたことすらない。その距離感が彼女にはちょうど良かった。一方で、いつか自分に手を伸ばしてくれるのだろうという期待もなかったわけではない。彼が卒業と同時に東京の企業に就職しても、まさかそれで縁が切れるとは思っていなかった。五月の連休には彼の住む町に遊びに行くのを楽しみにしていたくらいだった。
四月になって彼と連絡が取れなくなっていることに気付いて、しばらく呆然とした。自分はずっと彼に騙されていたのかと思った。だが冷静に考えてみれば彼とは体の関係もなく、将来の約束をしたわけでもない。もちろん金を貸したり貢いだりもしていなかった。騙されたというのは当たらない。彼を追って東京へ行こうかとも考えたが、今更そんなことをしても自分が惨めになるだけだと思った。それから改めて彼と過ごした二年間が顧みられた。征木のアパートには何度も行ったことがある。テレビすらないような殺風景な部屋で、杏子以外の別の女性の存在をうかがわせるようなものは何一つなかった。なんと言っても常に彼の一番近くにいたのは自分なのだ。隠れて交際している女性がいたならば、気付かないはずはない。
彼と一緒に見に行くのは、人形劇のヒントになるからと言って、ミュージカル仕立てのアニメ映画が主だった。これは考え過ぎかもしれないが、一緒に聞く音楽や過ごすロケーションなども含めて、性的な衝動に繋がるようなものは慎重に回避されていたように思えた。彼はもともと性的に淡泊な人だったのだろうか。彼女の方には、求められればいつでも応えられる心の準備はあったのだが。
「つまり、征木先輩はアセクシュアルな人だったんだね」と言ったのは、「ピグマリオン」の一年後輩にあたる小松崎大輔だった。一浪しているので年齢は杏子と一緒だ。彼は征木に対して、いつも憧れめいた気持ちを持っているように見えた。
「でも、必ずしもアロマンティックという訳じゃあない。つまり、先輩が杏子さんのことを大切に思っていたのは本当なんだと思うな」と言う。大輔が自分に関心を持っていることは、以前からなんとなく察してはいた。杏子は彼と付き合い始めるにあたって、征木との本当の関係を隠しておく訳にはいかなかったのだ。二人の間には何もなかったということを説明すると、彼は心底驚いたようだった。
「信じられない。征木先輩と杏子さんはまるで絵に描いたみたいな完璧なカップルに見えてたのに……。先輩は子どもたちに囲まれて本当にうれしそうだったし、その隣にはいつもぴったり杏子さんが笑顔で寄り添っていたから」
征木には、子どもたちを会ってすぐに篭絡するという特殊技能があるのだった。いや、技能というよりは体質だろう。もしかすると子どもにだけ嗅ぎ分けられるような特殊なフェロモンを発していたのかもしれない。ボランティアに出かけた先で、そんな彼と一緒に疑似家族を演じているのは彼女にとっても至福の時間だった。だが結局、それも彼との疑似恋愛に過ぎなかったということなのだろうか。
大輔の言う「アロマンティック」というのは、相手が異性・同性を問わず恋愛感情を持たないことをさす言葉だ。そして性欲・性衝動を感じないのが「アセクシュアル」だ。でも、と杏子は思う。性衝動を伴わない恋愛感情などというものがあり得るのだろうか。それはただの物欲や執着心とどう違うのか。性欲に比べて愛は純粋だという言説をよく聞くが、杏子にはそうは思えなかった。彼女は、愛というのは本来かなり打算的なものだと思っていた。それよりは、たとえほんの一時だけでも相手と一つになりたいと願う性衝動の方がよほど純粋なように思えた。
そもそも自分はどうして征木に惹かれたのだろう。彼の隣が自分にとっての居場所のように思えたのだ。彼女は二人の兄と一緒に育った。遊び友達も男の子ばかりで、女子の友達は少なかった。それに彼女は、誰もが認める立派なファザコンだった。幼い頃は、「大きくなったらパパのお嫁さんになってあげる」などとよく言っていたものだ。ある時父親と戯れていると、自分を凝視している母の眼差しに気づいてたじろいだ。ぞっとするほど暗い瞳だった。何よ、自分だって兄貴たちにメロメロなくせに、と母に反発を感じたのを覚えている。
自分は否も応もなく完全に女だと杏子は思う。大輔の言い方を借りるなら、ロマンティックでセクシュアルな女なのだ。だから征木に去られた後、すぐに大輔に「乗り換えた」のだった。それは、これ以上傷つくことを回避したいという打算からだった。
手に持った便箋の束に目を落とした。征木はこんな自分のことをどう思っていたのか、どうしたかったのか、そしてなぜ連絡を絶ったのか。その答がこの中にあるというのだろうか。不意に杏子は首筋に寒さを覚えた。気付けば、ほの暗い部屋の中で暖房もつけないままだった。何か温かい飲み物を飲みながらでもなければ、とてもこの手紙は読めはしないだろうと思った。
杏子はかつて、「死」ばかりを考え続けていたことがあった。中学二年生の夏だ。朝起きた瞬間から夜眠りに落ちるまで、常に「死」が心の半分を領していて、じっと自分を見据えているのを意識していた。それは苦しかった。好きな国語の授業を受けている時も、仲のいい子が推しのアイドルについて熱く語るのを聞いている時も、常に「死」が影のように自分の隣にいた。
学校は一日も休まなかった。彼女は成績もよかったし、クラスメイトとのトラブルも一切なかった。担任からは女子のまとめ役として期待されているのを感じてもいた。運動は得意ではなかったけれど、球技大会のバレーボールではみんなを𠮟咤激励して優勝につなげた。そんな自分が心の中では朝から晩まで死ぬことばかり考えているなんて、誰にも打ち明けたことはないし、言っても誰も信じないだろうと思った。
きっかけは特にない。「自殺パーフェクトガイド」みたいな本を読んだわけでもない。仮に読んでも、そんなものに影響を受けるような自分ではないと思っていた。それに、彼女の「死」への思いは「とにかく死にたくてしかたがない」というのとは少し違っていた。それはあくまで観念としての「死」であって、実際に地面に叩きつけられて脳漿を飛び散らせていたり、列車に轢かれて首や手足が引きちぎられたりしている自分の姿をイメージするわけではない。駄洒落のようだが、具体的な死の情景を想像することは死ぬほど恐ろしかった。それなのに吸い寄せられるように自分は「死」に向かっているのだと思った。今年の夏の間に必ず自分は死んでしまうだろう。生きて二学期を迎えることはないだろうと、根拠もなく思い決めていたのだった。
後から考えると、この頃彼女が囚われていたアンニュイには父の不在が大きく関わっていた。杏子の父は大学教員で、この年の春からサバティカルで単身南米大陸に渡っていたのだ。父は地球儀を見せながら、これから自分は地球の裏側に行くのだと言った。
「つまり僕は、いつでも君の足の下にいるという訳だ」
サバティカルはサバトと語源が同じなのだと教えてくれたのも父だ。もちろん当時の杏子はどちらの言葉も知らなかった。
「魔女とか悪魔崇拝の集会をサバトと言うのは、もともとキリスト教やなんかの安息日を表すラテン語やヘブライ語が変化したものとされてるんだ。で、同じ語源から、職務を離れた長期研修を表すサバティカルという言葉も出来たという訳。僕はこれからアマゾンの密林に悪魔会議に行くのかと考えたら、ちょっと面白いね」と言って笑った。
谷内というのは元々母の姓で、父は昔風に言えば入り婿なのだ。谷内家は結構古くから続く家なのだそうで、母はその一人娘だった。パパが自分の姓に拘らない人でよかった、パパと結婚して兄たちを授かったおかげで谷内の家名を守ることが出来た、だから杏子は自由に何処にでもお嫁に行けるのよと母は口癖のように言うのだった。杏子にはまるで意味が分からなかった。そもそも谷内という名前にそこまでの価値があると思えなかったということもある。
母が杏子のこの夏のアンニュイに気付いていたかどうかはわからないが、ある日
「杏子、良かったね。パパ、お盆には帰って来られそうだって」と言った。杏子はと言えばそれを聞いて途端に目の前が明るくなる、とはならずに、それなら何とかお盆までは生きていよう、死ぬ前にせめてもう一度パパに会いたいと思うのだった。
夏休み最初の登校日、この日はクラスで文化祭の出し物を話し合うことになっていた。杏子の中学には夏休み中はジャージ登校と言う謎ルールがあるため、学年色の水色のジャージを着て家を出た。学校までは徒歩で20分ほどである。日差しこそ強いが、秋のように朝からよく晴れた日だった。中学校は丘の上にあり、町のどこからでもその校舎がよく見えた。が、この日はよく見え過ぎる気がした。まるで杏子と学校以外は存在していないかのようだった。少し歩くとさらに不思議なことが起こった。体が全く前に進んでいかないのだ。透明な分厚い壁が体を押し返してくるようだった。足が大地に根を張ってしまったようでもあった。これではいつになっても学校に辿り着けない。動悸が激しくなり、気付けば全身を汗が滴り落ちていた。やがて世界がすっと暗くなった。寝坊して朝ご飯を抜いたせいかも知れないと思った。何処からか「きょうこおっ」と自分を呼ぶ声が聞こえる。パパの声にどこか似ていると思った。振り返ろうとするのだが、体が言うことを聞いてくれない。やがて後ろから強く肩を掴まれた。二歳上の次兄だった。掴まれた肩が痛かった。どうしたんだろう、最近ではこんなに無遠慮に体を触ってくることはなかったのにと思った。すると「すぐ家に戻るんだ。学校は行かなくていいって、母さんが……」と次兄は言った。
その日のその後の事を杏子は全く記憶していない。杏子の父親は結局お盆には帰らなかった。政情不安な地球の裏側の国で、無差別テロに巻き込まれて命を落としたからだ。父の亡骸は現地で荼毘に付されたため、家族も対面することは叶わなかった。母は毎日泣き暮らしていたが、杏子は泣けなかった。あまりにも実感がなくて、ただただ茫然としていた。そして気が付いた時には、ずっと彼女の隣に居座っていた死の影はすっかり姿を消していたのだった。
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