全財産で買われた没落令嬢は、鎧の獣とジャズに酔った — ベン/ヴェンデッタ —

えいとら

フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン



 あの夜、真っ赤な月の下で彼に教えられて、私は“ジャズ”をはじめて知った。


でもベネディクトと出会った記憶は、ジャズの名曲のようなロマンのかけらも無く、ただ血と金と暴力でまみれていた。


 ボロを着て石畳に倒れた私を庇ったベネディクトは、まるで人の形をした獣のようだった。




「なにしやがる!!」


 ベネディクトに殴られた男の、赤い鼻から血が流れていた。


ベネディクトは無表情で立ったまま、小手ガントレットの血を拭いながら言う。


「怪我をした女を殴ったりして、まじで意味不明なんだが?」


 『赤鼻の男』は、私の首枷を強く引く。乱暴な力が、喉を締め上げた。


「うっ!」


 『赤鼻』の指が、毛虫が這いまわるみたいに私の腕をなぞった。肌が泡立った。


 彼はわめく。 


「オレが買った女を、オレが殴って何が悪い!」


「いや。そこじゃないから。女を殴るのがダメって、俺は言ってるの」


 そう言いながらベネディクトは、私の前に跪いた。


鎧の重い金属音が、トレンチコートの下で鳴る。


肩まで緩くウェーブした黒髪。顎や鼻筋は、筋肉質な体と違って繊細だ。


「あんた、掃除はできるのか?」


「え?」


 掃除? なんのこと?


 彼は青い瞳の表情を変えることなく、繰り返す。


「あんた、掃除はできるのか? 俺の家、一人暮らしには広過ぎてさ? あと、料理は? フィッシュアンドチップスが好物なんだが?」


 私は掠れた声で答える。


「掃除は、多少なら。料理は、したことが無いわ」


 彼は微笑みを浮かべる事も無く、言葉を置く。


「なるほどね」


 赤鼻が、ふたたびわめく。


「おい! 鎧の男! 俺の女に勝手に話しかけるんじゃ……」


 その言葉を、『どさっ』という音が遮った。


地面を見ると、札束が落ちていた。


「これで足りるか?」


 赤鼻は目を見開いていた。


「は?」


 ベネディクトはめんどくさそうに頭を掻く。


「その女だ。500マナじゃ足りないのか? まじか。それなら……もう100追加だ。その折れた鼻、医者に診てもらえよ」


 ベネディクトは、地面にまた札束を置く。


赤鼻の目が、釘付けになった。


「なにを……」


「まだ足りない? どこまで搾り取るんだ? まあいいや。じゃあ800ならどうだ? 俺の今の持ち金ぜんぶだ」


 3つの札束が、石畳の上に積まれていた。


赤鼻は、口を開けたまま凍りついていた。


 屋敷暮らしだった私も、さすがに驚いた。


800マナですって? 田舎に別荘でも買うつもり?


 しかし、ベネディクトはどこか能天気だった。


「あんた、名前は? ……いや、女に対しては男が先に名乗るのがマナーだったな」


 ベネディクトは私の手を取る。冷えた私の指先が、ごつごつした彼の手で暖められる。


私の腕に乗っていた首枷の鎖が、「じゃらり」と落ちた。


 私は何故か、彼にされるがままだった。


「俺の名はベネディクト。たった今、今日の稼ぎをすべて失った『イケメン』だ。あんたの名前は?」


 私は即興で思いついた偽名を答える


「わたしの名前は……ベンデッタ(復讐)」


「ベンデッタ? 変わった名前だな。でも綺麗な響きだ」


 そしてベネディクトは、微笑んだ。


ベネディクトの笑顔は、死んだ兄の顔を私に思い起こさせた。


私の脳裏に、燃えたヴァルミリア家の屋敷のイメージがよぎった。


そしてその前で、マフィアのボスの悪辣な笑顔が思い浮かんだ。


 眩暈すら感じたが、頭を振って正気を取り戻した。


 一方で、ベネディクトは心から楽しそうに言う。


「ていうか、ベンデッタとベネディクト……。俺たちの名前って、そっくりなんだな! すごいって思わないか? ベンデッタ??」


私は、『彼にこれ以上心を許してはいけない』と思った。



———

——



 「この時間に靴屋は空いていないな……。すまないが、裸足で歩いてもらうしかないみたいだ」


 私は右脚を引きずりながら答える。


「べつにいいわ。気にしないで……ベネディクト様」


 三日月に照らされた彼は、肩をすくめる。


「逆に俺が気になるんだが? 寒空の下で裸足のケガ人を歩かせているなんて……。今度は俺が『人さらい』っぽくなっているんだがな?」


 たしかに彼が言うように、冬の夜の石畳は足の裏を切り裂くように冷たかった。


それでも私は、「おぶってやるよ」という彼の言葉を断った。


なぜなら、彼に買われた私が今唯一できる反抗が、自分の足で歩くことだったからだ。


 たとえ汚辱にまみれても、私は『私』のままで生きていたかった。


 それにこんな真夜中に、トレンチコートの下に鎧を着込んでいる男なんて、どう考えても普通じゃ無い。


それと独特すぎる軽薄な言葉使いも、怪しい。


あるいは弱った女を金で買って、慰み物にする変態なのかもしれない……。


本人が言うように『イケメン』ではあったけれど、とにかく不安しか無かった。


 そんなことをつらつらと考えていると、ベネディクトの声が聞こえてくる。


「おお。意外と近かったな。『あれ』だよ」


 彼が体を向けたほうに視線を向ける。


「あれ?」


 無数の『照明』の逆光の中で、ベネディクトは無邪気に笑う。


「そう。あれだ」


 そう言ったベネディクトが指さしたものは『家』では無く、月を消すほどに派手に輝く『キャバレー』だった。


その怪しくも洒落た真っ赤な建物には、金メッキで『ナイトホーク』と描かれている。


酒と香水と料理の、重く甘ったるい匂いが漂ってくる。ジャズバンドとグラスが奏でる喧騒が、微かに漏れてくる。


 私は、疑問をそのまま彼に投げる。


「あなたが言っている『あれ』って、もしかして、安っぽくぎらぎら輝いているキャバレーのこと?」


「そうさ」


 そう言った彼は、私に対して体ごと振り返った。


手を翻してお辞儀をする。


その動作は、キャバレーのステージで挨拶をする司会者のようだった。


 赤い逆光の中で、ベネディクトは続けて言う。


「ようこそ。ベンデッタお嬢様。キャバレー・ナイトホークへ……」


 ベネディクトは顔をあげて、いたずらっぽい笑顔を浮かべる。


「あとさ? 俺のことは『ベネディクト様』じゃ無くて『ベン』って呼んでくれよ。そのほうが気安いだろ?」


キャバレーの照明と弾むような音楽が、私を包み込んだような気がした。


 だから私は、その非日常に呑まれてしまった。


だから私は、差し出されたベンの手に、自分の手を重ねてしまっていた。


 ベンは、私の手を優しく引く。


そのまま彼はタップダンサーのように回転して、膝をつく。


 そして私は、そこに『靴』を見つけて驚く。


 ……どこで手に入れたのかは分からなかったけれど、ベンの膝の前に、汚れたハイヒールがあったからだ。


 その靴は、鈍いシャンパンゴールドだった。


ベンの目は少年のように澄んでいた。


「……お姫様シンデレラに、ゴミ箱にあった靴は似合わないかな?」


 ベンの青い瞳は真剣だった。トレンチコートの間から、無骨な鎧が鈍く銀色に光った。


 ふいに私の胸が、甘く痛く締め付けられた。


こんな変な鎧の男に? 私にはやるべき事があるのに?


 怖かった。でも私は涙を浮かべ、嗚咽するように言ってしまう。


「ううん。ありがとう。ベン。……嬉しいから」


 ——あるいは私がこの時に、呑まれたのは……


血の匂いが漂う『ベネディクト』という名のブランデーの、濃厚な酔いだったのかもしれない。


 私の汚れた素足を、ベンが恭しく持った『シャンパンゴールド』が優しく包んだ。


 私の吐息が、彼のボサボサの黒髪に当たる。


靴を持つベンの大きな右手の人差し指が、私の足の甲を少し撫でた。


冷え切った肌が、焼けたように温かく感じた。


 そしてこのとき、ナイトホークから聞こえてきた曲は……


——『Fly Me to the Moon』


……だったと思う。


 復讐を誓った心の刃が、月光とベンの甘い笑顔のせいで、光を失った。

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