アメシストの指輪・中
「正一さんを殺し、指輪を盗んだ犯人はこの中にいる」
久瀬は三度ポケットの中の万年筆に手を重ねた。体が心から冷えていくように感じた。万年筆の銀の軸が、体温を吸い取ってじわりと熱を帯びているような錯覚に陥る。
嵐はさらに激しさを増し、屋敷を外界から切り離していく。
――この中に、正一の血を浴び指輪をその手に握りしめている者がいる。
「佐伯さん、予備の明かりかもしくはろうそくを。……長い夜になりそうだ」
ふと大きな叫び声がダイニングに木霊した。
「警察に連絡してよ! 今すぐ!」
美奈子が正一の死に取り乱し、志乃の腕を掴んで揺さぶっていた。
「無駄ですよ。屋敷がこんな山の上なんですから。それにこの嵐だ、おそらく倒木で道路が遮断されている。電話線も……ほら。携帯が使えて助かったが、警察が来られるのは早くても明日でしょう」
久瀬は壁に設置された古い固定電話を指差し、冷淡に言った。
「あんた、どうしてそんなに冷静なのよ。人が一人死んでるのよ!?」
「……もちろん、とても衝撃を受けていますよ。でも僕は探偵ですから、今はお仕事の時間なんですよ」
久瀬は美奈子の問いに答えながら正一の遺体の周りをゆっくりと歩き回り、床に散らばったグラスや食器の破片、血に似た赤ワインの飛沫を注視した。
「先生、そんな……。それじゃあ私たち、殺人犯と一緒にここで朝を待つのですか?」
志乃が顔を青くしながら尋ねる。
志乃にはまだ殺人事件の経験がなかった。
「志乃、探偵の仕事は何だっけ?」
「……そこに必ずある真実を見つけ出すことです」
「正解だ。もっとも、この仕事を強制する気はない。今日みたいな危険とも隣り合わせだからな。辞めようと思うのならいつでも辞めて構わないよ」
久瀬は床に転がったままの主を失ったベルベットの箱を、ハンカチ越しに拾い上げた。箱の内部には、指輪を固定するための窪みが残っているだけだ。
「夫人。一つ伺いたい。正一さんが殺されたとき、貴女のすぐ近くに誰かいましたか?」
志津子は椅子に座りこみ、幽霊のような顔で久瀬を見上げた。
「……分かりません。暗くて見えませんでした。停電に気付いてすぐに指輪を回収しました。けど、誰かが私の手首を強くつかんだのです。その手はとても冷たくて……。気付いた時には、箱は私の手にはありませんでした」
「冷たい手、ですか」
久瀬の視線が容疑者たちの手元へ向く。美奈子は震える手を隠し、健二もポケットに手を突っ込んだまま動かない。執事の佐伯は、表情一つ変えずにろうそくを並べていた。
「佐伯さん。貴方は停電の直前、どこにいましたか?」
「ご存じかとは思いますが、私は扉のそばで厨房にコーヒーの準備を指示するために下がろうとしておりました」
「なるほど。では、貴方の位置からなら全体を見回せたわけだ。誰かが夫人に近づくのも、正一さんの背後に回る者も、闇の中でも気配を感じたんじゃないですか?」
「いくらなんでもそれは難しいと思いますよ。それに……雨の音が、激しすぎました」
佐伯は視線をそらさずに答えた。
「いいでしょう。では、次に全員の持ち物検査をさせてください。……もちろん、僕が預かったこの万年筆も対象です」
久瀬はポケットから、志津子に託された万年筆を取り出し、蝋燭の淡い光にかざした。
「持ち物検査だと? 悪趣味な冗談はやめてくれ」
健二が吐き捨てるように言った。彼は床に落ちたタブレットを拾い上げ、ハンカチで丁寧に画面を拭っている。
「僕たちは親族を目の前で亡くしたんだ。探偵ごっこの相手をしている暇はない」
健二の言葉に、志乃は少し嫌悪感を覚えた。
「ごっこ遊びでは決してないのですがね。それとも何ですか。健二さんが犯人だから調べられたらマズい物でもあるんですか?」
久瀬は挑発するように健二に諭した。
「あなたもですよ、美奈子さん。言いましたよね、やましいことがなければ探偵の一人や二人くらい気にならない、と。ぜひ協力してください」
久瀬の不気味な笑顔が美奈子を襲った。
「……わかったわよ。やればいいんでしょ」
美奈子が自暴自棄に叫び、椅子の背にかけていたクロコダイルのハンドバッグをテーブルに叩きつけた。
「志乃、検査を頼む」
「了解です、先生」
志乃は手袋をはめ、慎重に美奈子のバッグから中身を取り出していった。
高価な化粧品、派手な色合いの香水瓶、金色のシガレットケース、そして。
「……これは?」
志乃が取り出したのは、ハンカチに包まれた小さな容器。ラベルは剥がされているが、中には透明な液体が入っている。
「それは……ただの目薬よ! 最近、目が乾燥するから」
美奈子の声がわずかに上擦る。久瀬は横からその容器を覗き込んだ。
「まあいい、次だ。健二さん、貴方のポケットを」
久瀬の促しに、健二は不機嫌そうにジャケットのポケットを裏返した。スマートフォン、ワイヤレスイヤホン、それと、どこかの鍵。
「この鍵は……?」
「それはサーバーラックの鍵だ。仕事で使う」
「ふむ。IT長者も物理的な鍵には依存するわけだ」
「何が言いたい」
「何も?」
健二は今にも久瀬に噛みつきそうに睨んでいた。
志津子の持ち物検査もしたが特にめぼしいものは何一つなかった。
最後に久瀬は給仕を続けていた佐伯に歩み寄った。
「佐伯さん、貴方はこの家全体の管理をしていると聞きました。ならば、あらゆる部屋の鍵を持っているのではないですか? それと、貴方の右の袖口……ワインの染みにしては色が紫すぎる気がしますが」
佐伯の表情が一瞬だけ硬直した。彼は無言で袖を捲り上げた。そこには正一の指と同じ、不気味な紫色の染みが点々と付着していた。
「これは……長い間放置されていた書斎にあるアメシストの台座の模造品を清掃した際についたものです」
「ほう。台座から色が移るほど、それは不安定な代物だったと?」
「いえ……」
久瀬は懐から志津子に預けられた万年筆を取り出した。
「夫人。もう一度詳しく教えて頂けますか。亡き御主人が『真実を写すペン』と呼んでいた、この万年筆について。先ほどから、私が持っていると中が妙に震えているんです」
志津子は、揺れる蝋燭の中でより一層老け込んだように見えた。
「……主人は宝飾品だけでなく、化学にも精通しておりました。盗まれてしまった指輪のアメシストは主人の代から偽物と変わっています。ただ、特殊な加工が施されているのです」
「加工?」
その場にいた全員を代表するように健二が口を開いた。
「藤堂家には代々、偽物を掴まされないための知恵が伝わっております。その知恵と化学を融合させてつくられたのが、主人の偽物のアメシストの指輪なのです」
誰も言葉を発しないまま志津子の言葉を待ち続ける。
正一が亡くなって以降もタブレットに目を落としがちだった健二も、今はよく話を聞いている。
「あの偽のアメシストの結晶構造には、主人しか知らないある特定の試薬に反応する成分がが浸透させてあるのだそうです。……そして、その反応を引き起こす『触媒』がどこかにある、という風に私は伺っております」
「なるほど」
久瀬は納得したように頷き、万年筆のキャップをゆっくりと廻し開けた。
「先生、分かったんですか?」
「ああ、何となくだがな」
全員の視線が久瀬に集中した。
「じゃあもったいぶらないでさっさと教えろよ!」
「触媒、ってなんなのよ!」
健二も美奈子も指輪が偽物と知ってなお、それを手にしたい様子だった。
「まあ、落ち着いてください。これは、犯人しか口にできない極上のメインディッシュなんですから」
久瀬は正一の遺体の指先に残った紫色の染みに、万年筆のペン先をそっと近づけた。
微かだが、ペンが揺れる感覚が久瀬にはあった。
「失礼ですが、仮に夫人が犯人だとして。もし、正一さんが指輪を盗もうとして返り討ちにあったのだとしたら、彼の指に色がつくわけがない。それなら彼は箱を開ける前に刺されたはずだ。……ということは、この染みは指輪そのものから移ったのではない」
久瀬は鋭い視線を美奈子が持っていた目薬と、佐伯の紫の染みのついた袖口へと向けた。
「犯人は、停電の瞬間に指輪を奪い、正一さんを殺した。だが、そのままでは先程の持ち物検査などの際に探偵である私に見つかる。だから犯人は、あらかじめ用意していた偽物とすり替えたんだ。……だが不運だったのは、その本物自体も偽物でその鮮やかな紫は着色剤であり、それが何かの成分……あるいは夫人が焚いているお香と反応して溶けだし、予想外の変色を起こしてしまったことだ」
久瀬は美奈子の目薬を借り、それを傾けた。
「さあ志乃。この目薬を皆さんの手に一滴ずつ垂らしていこうか。もし真犯人がいるのなら……そいつの肌は、一生消えない真実の色に染まることになる」
「何か危なそうだぞ! やめといた方が良いんじゃないか?」
叫んだのは、以外にも健二だった。彼の顔からは余裕が消え、額に脂汗が浮かんでいる。
志津子、美奈子、健二、執事の佐伯、そして久瀬も志乃も容疑者の一人。
しかし、久瀬には事件の全容が既に見えているようだった。
アメシストの指輪 如月香 @Kaoru_Kisaragi
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