アメシストの指輪
如月香
アメシストの指輪・上
「いいかい、ワトソン。世の中には二種類の人間がいる。宝石を愛でる者と、宝石に魅入られる者だ。そして前者は往々にして、後者に殺される運命にある」
探偵・久瀬は、ワイングラスを片手に、窓の外の淀んだ空を眺めていた。事務所の空気は、古い本の紙の匂いと、十数分前までいた客のものであろう僅かな煙草の匂い、そして彼が愛用する安物のコロンの香りなどが混ざり合っている。
「……先生、私はワトソンではありません。志乃です。それに、その台詞はたった今思いついた何となく格好いい言い回しを試しているだけですよね。お酒を飲む前に、溜まっている書類に目を通してください。特にそろそろ家賃を払わないと、本当に退去させられちゃいますよ」
デスクでテキパキと書類を整理していた助手の志乃は、冷ややかな、しかしどこか慣れっこになった視線を久瀬に投げた
「失礼な。これは一種の予報だよ、志乃。僕の直感はテレビの天気予報よりも正確だ。見てごらん、この招待状を」
久瀬は内ポケットから、一通の厚手の封筒を取り出した。銀の封蝋には、蔦が絡まる盾の紋章——藤堂家の家紋が刻印されている。
「藤堂志津子夫人……。老舗宝飾店『トウドウ・アンティークス』の現当主ですね。ついこの間も、鑑定の番組で拝見しました。そんな人が先生に何の用で……古稀を祝う晩餐会の招待状?」
「表向きはね。だが、この招待状の『筆圧』を見てごらん。彼女は本来、流麗な達筆で知られる人だ。だが、この末尾の署名だけが、紙の裏側に跡が残るほど、ましてや紙に少し穴が開くほど強く、執拗に塗り潰すように書かれている。まるで、書きたくない言葉を無理やり紙に叩きつけたようじゃないか」
久瀬は招待状を光にかざし、紙の表面のわずかな凹凸を指先でなぞった。
「さらに、ここだ。招待状の隅に、微かな『油分』の跡がある。志乃、君の鼻ならわかるだろう? これは扉用のワックスの匂いだ。彼女はこの手紙を自分のデスクではなく、屋敷のどこかにある『古い保管庫』の扉でも借りて、書いたんだろう。彼女の家は謎が多いと有名だからな。つまり、秘書や家族の目に触れないうちに、隠れて、急いで書く必要があった。……僕を呼ぶという口実で、彼女は僕に、この屋敷に潜む『悪意』の鑑定を頼みたいのさ。無論、行ってみるまで全ては推論にすぎないがね」
久瀬の事務所は時折、その顔を探偵事務所から宝石鑑定の事務所へと変えていた。探偵であり宝石鑑定にも精通している、久瀬は少々癖のある経歴の持ち主であった。
久瀬は立ち上がり、ハンガーに掛けていた長めのトレンチコートを羽織った。
「さあ、行こう。志乃、君も来るんだ。記録係が必要だからな。雨が本格的になる前に、その手紙の意味の正体を見極めに行こうじゃないか。ああ、報酬の交渉は、君の腕にかかっているよ。僕らの事務所の生存がかかっているんだから」
「……結局、私に押し付けるんですね。分かりましたよ、先生はそういうの苦手ですもんね。傘はちゃんと二本持っていきますからね。前みたいに相合傘はもう御免です」
藤堂邸は、都心から車で一時間ほど離れた郊外の、深い森に囲まれた丘の上に建っていた。 重厚な石造りの門をくぐると、砂利を噛むタイヤの音が静寂を切り裂く。庭園には手入れの行き届いた紫陽花が、雨に打たれて重たげに頭を垂れていた。
「……悪趣味なほど静かですね」
志乃が助手席で小さく呟く。
「静寂は、嵐の前の最高のスパイスだよ」
久瀬は車を止め、見上げるような大扉を見つめた。
「また先生はそういうちょっとクサい台詞を……」と志乃が呆れているが久瀬は気にする様子もなく歩いていく。
出迎えたのは、冷徹そうな目つきをした執事の佐伯だった。
「久瀬先生ですね。夫人がお待ちです。……そちらの方は?」
「僕の助手の志乃です。僕の眼が届かない場所を、彼女の耳と鼻が補ってくれる」
佐伯は無表情に頷き、二人を応接室へと導いた。
「久瀬さん、よく来てくださいました」
部屋の奥から現れた藤堂志津子は、深い紫色のドレスに身を包んでいた。白髪は丁寧にセットされ、背筋は真っ直ぐに伸びており、堂々としている。しかし、久瀬が握手をしたその手は、凍えるように冷たかった。
「光栄です、夫人。本日は素晴らしい会に招待いただきありがとうございます」
「ええ……。でも、その前に少しお話をさせてください。志乃さんと言ったかしら。あなたも座って」
志津子は椅子に深く腰を下ろすと、おもむろにデスクの引き出しから一本の古い万年筆を取り出した。銀色の軸には、波打つような繊細なアラベスク模様が彫り込まれている。
「単刀直入に言わせてもらいます。……これを、あなたに預けておきたいのです。久瀬さん」
久瀬は眉を動かした。
「僕に万年筆を? 何かを記せと?」
「これは亡き夫が、この家を建てた時に特注で作らせたものです。インクはもう切れていますが、夫はこれを『真実を写すペン』と呼んで大切にしていました。……久瀬さん。今夜、私は親族たちの前で決断を下します。もしかしたら、これのせいで家族が分断されてしまうかもしれません」
志津子の指先が、銀の軸をなぞる。
「もし何かが起きたら、このペンを『鍵』だと思って持っていてください。……いえ、これは老い先短い女の、単なるお守りだと思ってくださって結構です。ただ、あなたの手元にあるというだけで、私は安心できるのです」
久瀬はその万年筆を受け取り、指先で転がした。ズシリと重い。彼はキャップを外し、ペン先を確認した。確かに乾ききっており、書ける気配はない。だが、その軸の内部で、何かがわずかに動くような奇妙な重心バランスを感じ取った。
「インク切れの万年筆、ですか。書けないペンほど、探偵の想像力を刺激するものはありませんね。……確かにお預かりしましょう。僕のポケットの中にあるうちは、誰にも触れさせません」
志津子は少しだけ表情を和らげると、傍らのサイドボードに置かれた小さなベルベットの箱に手を伸ばした。 彼女が慎重に蓋を開けると、そこには大粒のアメシストから成る指輪が鎮座していた。
石の内部で、深い紫と微かな赤が混ざり合い、まるで深い海の底で火が灯っているような、形容しがたい輝きを放っている。
(なあ、志乃。この夫人はずいぶんと紫が好きなようだが?)
(そうみたいですね。……そこのクッションも紫ですし、よく見るといたるところの装飾に紫が使われているみたいです)
久瀬と志乃は志津子には聞こえない声で会話を交わした。
「美しい指輪だ。だが、この輝きを独り占めしようとすれば、その美しさで視界が奪われそうだ」
久瀬の呟きに応えるかのように、遠くで低い雷鳴が響いたように心の内が少し震えた。
その時、ドアが鋭くノックされ、執事の佐伯が告げた。
「夫人、皆様がお見えになっております。急かすようですが、ダイニングへお越しください」
それを聞くと志津子は素早く箱を閉じ、ベルベットの箱をドレスの隠しポケットに収めた。
ダイニングルームへ案内されると、そこにはすでに三人の男女が席についていた。高い天井からは巨大な水晶のシャンデリアが吊り下げられ、磨き抜かれたオーク材の長テーブルにはシルクのテーブルクロスがかけられ、銀の食器は鈍い光を放っている。
「母さん遅いよ。主役が一番最後なんて、演出が凝り過ぎじゃないか?」
最初に口を開いたのは、長男の藤堂正一だった。五十代半ば。恰幅は良いが、健康とはいえなさそうで、神経質そうにテーブルの上のスプーンを弄んでいる。
「あら正一さん。母様は準備に余念がないのよ。何しろ今夜は、誰がこの家の『次期当主』になるか決まるんですもの」
皮肉気に微笑んだのは、長女の藤堂美奈子だ。四十代後半。幼少期に許嫁となった財閥の御曹司と結婚している。首元には、志津子が持つアメシストに負けじと大粒のダイヤモンドが散りばめられたネックレスが光っている。その視線は、まるで分かっているかのように志津子のポケットを執拗に追いかけていた。
そして、末席で一人、タブレット端末を眺めていたのは甥の葛城健二。三十代と集まった親族の中で一番若い。IT企業の若き経営者として名をはせている彼は、この古い洋館そのものを軽蔑しているような、冷ややかな空気を纏っていた。
「それで、母さん。そちらの『お客様』は誰だい?」
正一が値踏みするような視線を久瀬と志乃に向けた。
「探偵の久瀬さんよ。そして助手の志乃さん。今夜のために、私がお招きしたの。何かあっては困りますから、護衛のようなものです」
志津子は凛として応え、上座に腰を下ろした。
「冗談じゃない。家族の晩餐に探偵を呼ぶなんて、僕たちを泥棒扱いしているのかい?」
長い間弄んでいたスプーンを持つ手を止め、志津子を試すかのように声が鋭くなる。
「泥棒だなんて心外だわ。でも兄さん、やましいことなんかなければ、探偵だか何だか知らないけれど、その一人や二人、気にならないでしょう?」
美奈子がクスクスと笑うが、その目は笑っていない。ずっと志津子の動きを監視しているような、こちらは視線を鋭く尖らせていた。
美奈子の言葉に、正一は舌打ちをしてまたスプーンを弄りはじめた。
久瀬は彼らの言葉を柳に風と受け流しながら席に着いた。隣の志乃は支給されたナプキンを広げながらも、厳格な雰囲気に負けないくらい、鋭い視線を藤堂家に向けていた。
「皆様、今夜は志津子夫人の古稀のお祝いです。険悪な話は食事が終わってからになさってください」
執事の佐伯が、機械のような正確さでワインを注ぎまわり(志乃はお酒が飲めないためジュースだが)、凍り付いた空気を強引に動かした。
出てくる料理は驚くほど豪華だったが、誰もその味を楽しんでいるようには見えなかった。夫人を祝う言葉や近況報告などの会話が交わされることがあるものの、カチャカチャというカトラリーの音だけが、不気味に響く。
外の雨脚はさらに強まり、時折大きな雷が屋敷を震わせた。強風にあおられ、ガタガタと叫ぶ窓もこの雰囲気を助長するようだった。
味もまともに感じられないまま、食事の時間は過ぎていき、瞬きを一度しただけでその時間が終わったと感じるくらいには時間の進みが早かった。
「さて……。食後のコーヒーを待つ間に、本題に入りましょうか」
志津子が静かに告げると、久瀬と志乃を含めたテーブルを囲む6人に緊張が走った。彼女がアメシストの指輪の入ったベルベット箱を取り出し、テーブルの中央にそっと置いた。
「この指輪は、藤堂家の当主が代々受け継いできたもの。過去を振り返ればおそらく100年は優に超えるでしょう。この指輪のおかげで一度傾いた家の事業も輝きを取り戻せたのだと思います。今夜はこの指輪の継承者、つまり次期当主を決めるつもりでした。指輪の継承者は……正一さん。あなたです」
志津子がそう言った途端、正一の安堵、美奈子の溜息が重なり、健二は聞かなかったかのようにタブレットに再び目を落とした。
「やっぱり、僕がなるべきだよね。流石母さん、分かってるじゃないか。さ、その指輪を早く僕に渡してくれ」
しかし、正一が指輪を渡すように言っても志津子はその箱を手放そうとしなかった。
志津子が一度呼吸をして、ダイニングの雰囲気がより一層険しくなっていくのを久瀬は感じた。
「……ですが、私は今夜これを譲るつもりはありません。この指輪は私が死んだときに正一さんにお譲りいたします。この指輪は歴代の当主の血と汗が染みついているのです。はっきり申し上げてしまえば、あなた達にそのような覚悟と気品は全く感じられません。しかし、私が死んでしまえばどうしようもありませんから。仕方なく、正一さんに継いでもらうのです」
「どういうことだ!?」
全員が立ち上がり、椅子が大きな音を立てて倒れた。
「母さん約束が違うじゃないか! すぐに継ぐって話だったのに。店を、この家を守るために僕がどれだけ苦労しているか知っているだろう?」
「苦労? 投資に失敗して横領した会社の金を埋めるための裏工作のことかしら?」
志津子の声は、氷のように冷たかった。
「あなたもよ、美奈子。あの御曹司にあげるんだか知らないけれど、店のダイヤと偽物をすり替えたことを、私が知らないとでも思ったの?」
美奈子の顔が一瞬にして青ざめた。
「健二さんもよ。この家を壊して跡地にデータセンターを建てる計画書、よくできてたじゃない?」
三人の沈黙が、重くダイニングにのしかかる。久瀬は預かった万年筆をポケットの上からそっとなでた。志津子はこれをはっきりと口に出してまで、家族がバラバラになる覚悟をして言ったのだ。
「……はあ。健二さんは少し毛色が違うけれど、皆ほとんど犯罪じゃない。どうしてこうなってしまったのかしらね」
その時、空を引き裂くような凄まじい落雷の音が響いた。おそらく藤堂邸の近くに落ちたのだろう。直後、シャンデリアの光が激しく点滅し、そのままダイニングは闇に包まれた。
「停電よ!」
普段からの高慢な態度にしては臆病な性格の美奈子が慌てふためいているのが、声だけで察することが出来た。
「危ないから全員動くな! じっとしているんだ」
久瀬が声を張り上げてそう言った。
闇の中で、微かに空気の揺れを感じた。皿が割れたようなひび割れた音、そして「ぐっ……」という短く、押し殺したような呻き声が聞こえた。久瀬は反射的に音のした方へ視線を向けた。
しかし、眼の奥に残るシャンデリアの点滅が邪魔をして、目を凝らしてもよく見ることが出来ない。
「今度は何よ! 食器が割れた音がしたわ!」
次々と起こる異常事態に、もう美奈子は自我を失いそうにもなっていた。
「志乃、ライトを!」
「……っ、はい!」
志乃がバッグからLEDライトを取り出し、スイッチを入れた。
「せ、先生……」
震える光の輪が、ダイニングを照らした。
そこには目を疑う光景が広がっていた。
先ほどまでその場に立っていた正一が、テーブルの上に横たわり、その背中には深々と肉切り包丁が突き立てられていた。
純白のテーブルクロスを鮮血が染め上げていく。
「……兄さん?」
美奈子のかすれた声が、静かに響いた。
久瀬は志乃からライトを受け取ると、念のため倒れた正一の容態を確認した。
「だめか……死んでいる」
「正一兄さん……? 嘘だ!」
力が抜け、健二の手からタブレットが落ちた。それはとても無機質に、空虚な光を放っている。
正一の遺体の隣で、指輪の入ったベルベットの箱は無残に口を開けていた。だが、そこに主の姿はない。
「指輪が……アメシストの指輪がないわ!」
美奈子が叫び、後ずさりをする。
久瀬は顔をあげ、周囲を見回した。ダイニングと廊下とを隔てる扉は食事の前から開け放たれており、そこから続く廊下の奥は深い闇に沈んでいる。外へと通じるテラスの扉の一つは、突風に煽られ、ガタガタと揺れ、今にも壊れそうだった。
「密室じゃない。どこへでも逃げ出せるし、どこからでも侵入できた。いや、内部の人間の可能性も……」
久瀬は忌々しそうに呟くと、ライトの光を遺体の手元に合わせた。彼の瞳が捉えたのは、正一の右手だった。
「……なんだ、これは」
正一の親指と人差し指の腹に、べっとりと、毒々しいほど鮮やかな「紫色の染み」が付着していた。それは明らかに血の色ではなく。まるで、あのアメシストそのものが溶けだしたかのような、異様な色彩だった。
久瀬は自らの口角を僅かにあげた。
「志乃、僕が良いというまで全員をその場から動かさないでくれよ。……面白くなってきた。やっぱり殺人事件に遭遇するのは探偵冥利に尽きるね。……正一さんを殺し、指輪を盗んだ犯人は確実にこの中にいる」
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