第3話
12月23日
股間の疼きに耐え、最後の夜を迎えていた俺は、ある夢を見た。
それは幼い頃、夏休みに田舎の親戚宅へ遊びに行った頃の記憶だ。両親が事故に遭う数年前のことで、その時から俺は彼らがやんわり親戚から嫌われていることを知っていた。家督を継がず、見合いにも応えず、都会で出会った女と駆け落ちしたからだとか。だからあの時は親戚宅を離れ、ぶらぶら外を歩いて時間を潰そうとしていたんだと思う。
「——めて、やめてってば!」
家の周りの砂利道を踏みしめていると、そんな声が聞こえた。駆け寄ると、白いワンピースを着た中学生くらいの背丈の女の子と、それに群がるようにして数人の子供が何かを引っ張っている。それは女の子が大事に抱えていた虫篭だった。
「こわそうぜ! こわそう! 変なのー!」
子供の一人が虫籠をひったくり、天高く持ち上げる。
辛うじて、それに中身があることが遠くに居た俺にも分かった。
「おい、やめろっ!」
俺は咄嗟に走り出して叫ぶ。出た言葉は自分が思っていたよりも鋭く、甲高く響いた。見覚えのない人間から突如浴びせられた怒号にいたずらっ子たちも一瞬唖然とする。
「ひい婆がこっちに来てるぞ、良いのか! 鬼のひい婆だぞ!」
「っべ、逃げるぞ!」
追加の脅し文句が功を奏し、子供たちが消え去る。あとに残ったのは乱暴に捨て置かれた虫籠と、それを見下ろす中学生の女の子、そして俺だ。
「……ねえ、もっと早く助けにきてよ」
「えっ、ご、ごめん」
それが必要のない謝罪だと気付くまで数秒。少しして俺は「なんだこいつ」と胸中で悪態を突いた。
「なにしてたの……」
「別種のクワガタ同士を交尾させて、新種を作ろうとしたの。通常、遺伝的距離が遠い種は子供ができないか衰弱した個体しかできないんだけど、こいつらは比較的距離も近いし、繁殖時期が良いから可能性も高かった。なのに、あーあ……」
籠からつまむようにして取り出したのは、妙な形に反り上がった艶やかな棒……彼女が答えを言うまで、俺は馬鹿真面目にそれを見つめていた。
「なに必死な顔してクワガタのチンチンなんか見てんの?」
「うぇっ!? きたねっ!」
というか、グロい。子供ながらについ自分の股間を抑えてしまう。
「汚くても生き物は生き物だよ。こういうのを前に私たちがすべきなのは忌避とか嘲笑じゃなくて、人間の身勝手で怪我をしてしまった生物に、せめてもの敬意を払うことさ」
「敬意……?」
首を傾げる俺に、少女が髪を靡かせて笑う。
「君には分かんないか。まだ小学校低学年くらい?」
「ば、馬鹿にすんなよ! めっちゃ賢いし!」
「ふ、ふははっ!」
咄嗟に見栄を張ったが、股間を抑えながら言うことじゃなかった。子供らしい振る舞いをする俺に、彼女は美しく微笑むばかりだ。そこに悪意も無ければ好意もない。大人のようで子供らしい笑顔。
「でも、ありがとね。助けてくれて」
「……お、えっと、うん」
真っ直ぐな言葉が胸を突く。何かは分からないが、この感情を見透かされるのが怖かったので、俺はついそっぽを向いて返事をした。にまにまと少女の目が俺を見る。
「次も助けてくれる?」
「……いいけど、虫は嫌いだから別のことにして」
「ふふ、やっさしー。やっぱ親が優しいと子供も優しい子に育つのかな……」
少女は無遠慮に俺の頭を撫でた。だがその手つきはどこか寂しそうで、簡単に払いのけることができない。ただ彼女が満足いくまで、俺は大人しく撫でられるばかりだ。
「約束する。君が助けてくれたら、私も君のこと助けてあげるから」
夏日に照らされた真っ白な砂利の上。じわじわと鼓膜を震わせる蝉の合唱。太陽を遮り、日陰となって俺の前に立つワンピースの女の子。そうした瑞々しい記憶は、両親の死という壮絶な出来事によってしばらく分断されていた。それが今になって思い出すなんて――
「うっ、ああッ……!」
いつの間にか眠っていたらしい。
股間の痛みで目が醒める。窓を見ると、空はわずかに白んで夜明けを告げていた。
ふと、自分が固い紙切れのようなものを握っていたことに気が付く。眠りながらずっと持っていたらしい。
――紙切れを開く。すっかり色がくすんだ古い写真だ。不愛想な少年と、その少年に馴れ馴れしく引っ付いている白ワンピースを着た少女の姿がそこにある。
彼らが誰なのかは分からない。
だけれど、何故だか見ているだけで、涙が溢れて仕方がなかった。
「時は満ちたりぃ!」
元研究所所長、現マラー
時は一二月二五日。場所は国会議事堂前。今や二千人に及ぶ信者たちによる工作と、多少の武装、装甲車によって我々はこの一帯を占領することに成功した。
今、一台の装甲車の上に俺は立っている。上半身は純白のワイシャツ、下半身は生まれたままの姿、怒張した其の姿を露わにして。
信者たちはそんな俺を囲むように群がり、奇声にも似た賛美の声で俺の言葉を待っていた。
「
特権司祭の所長は、信者たちに連れられてきたユキ姉を俺の傍に置いた。また彼の疑問に対し、其は流暢に返す。
「この宣告、必ずや政府による横槍が入る。だが神の声が聞こえるその時まで決して邪魔を許すな。位置にして星の陰るところ、其の日陰に女を置け」
「なるほど、人質という訳ですね」
「コウスケくん……まだ間に合うわ、正気に戻って……」
「其はもう
もうユキ姉以外、其の言葉が俺の言葉だとは誰も思っていなかった。もちろん、俺自身でさえも。
儀式めいた何かは順調に進んでいたらしい。国会に繋がる道は信者たちにより封鎖されて、信者たちの賛美の声は法則性のある祈りの歌に変わっていた。
其は頃合いを見て信者たちに向き直ると、寒さで乾ききった口を動かす。この時に至るまで、陰茎は当然勃起したままだった。
「至れる者は幸福である。知らされる者はその次に幸福である。見えず、また知りもせぬ者は最も不幸な者と知れ。今ここに神の所在が明かされる!」
「至れり! 至れり!
ごおお、と信者たちの怒号のような歓声が上がる。国会議事堂の前でこんなことをして誰も邪魔をしないのは、この信者たちの中に幾人か国の重要人物が混じっているからだ。この陰茎の知恵はもうそこまで世界を蝕んでいる。
「神とは、遍く全ての闇を払う者! 知者とは、遍く全ての人々の蒙を啓く者!」
「おお……!」
「この相似は必然、
「おおおお、おおおっ!」
信者たちが興奮のあまり次々に看板を掲げた。看板には偶像崇拝を恐れてか、黒海苔がついた陰茎や、モザイクがついた陰茎が描かれている。
「しかし其は神に非ず。何故ならこの身はその出自に至るまで純粋な人間だからだ」
俺の陰茎、否、其がびくびくと震えた。必死に言葉を紡いでいるのが分かる。人々を助けたい。誰かの役に立ちたい。俺の小さな願いが肥大化して、もうこんなにおっきくなっている。
「諸々の民よ聞け。其はこの身からヒトを排し、まったく真なる神のみを残してみせよう! この成功を以って、神の存在を証明してみせる!」
「コウスケくん、まさか……!?」
ユキ姉が何かを察して暴れたが、すぐに取り押さえられた。
信者の一人が其のもとに近付く。その手にあるのは――リボルバー式の拳銃だ。
「其の脳は二つ。一つは股の間に在りながら神に届き得る知啓を持ち、一つはより天に近いところに在りながらも愚かで無価値な記憶しか持たない。天の頭脳だけを排して其が生きていたのならば、神性は至純に近づくと言えよう。その後で、其はこの世界に光をもたらさん」
「ば、バカなことはやめなさい! キミはそんなことする子じゃないでしょ!? キミは――」
「こいつ、しつこいぞ!」
暴れるユキ姉の後頭部を、信者の一人が棒で殴った。彼女はばたりとその場に倒れ伏して、すっかり沈黙してしまう。
「ユ、キ……ねえ……」
「
「……其は、俺は……」
拳銃を差し出す信者が、傍らにいる特権司祭が俺を訝しい目で見る。
拳銃を取る手を引っ込めなければ。震える手をそのまま、身体の後ろに下げるだけでいい。
倒れたユキ姉の様子を見なければ。俺は人を助けたいから、だからここまで来たんだろ。ユキ姉のことを助けたくて、彼女の役に立ちたくて。
「
特権司祭が信者から拳銃を奪い、俺の手に握らせた。
冷たい金属の感触。それが確かに人の命を奪うものだと、俺は頭で理解していても股間では理解できなかった。
震える手で、銃口を頭脳に突き付ける。照準は定まらなかったが、やがて恐怖が全身から抜けていき、それと同時に手先の震えが収まっていく。
視界がぼやける。歓声もまた伸びていく。視覚も聴覚もあるのに、どれもまどろむようだ。まどろみの後ろには、忘れがたい数々の記憶が流れていた。奇妙な女の子に出会ったあの夏、両親の帰りが遅かったあの日、ユキ姉が俺を引き取ると言ってくれたあの瞬間。
どれも忘れたくない。どれも失いたくない。この体は俺のものなんだ。神様なんかじゃないんだ。俺はただ、ユキ姉のことが好きだから。ユキ姉の役に立ちたかったから。約束を果たしたかったから。だから――
ぱんっ、と乾いた銃声が寒空に響いた。
歓声が水を打ったように静まり返る。その時人々は其ではなく、人間である俺の顔を見ていた。
鮮やかな血を噴き出す俺の額を。
「神性……ここに在り」
俺の口はそう告げた。股間がぴくりと天を突き、信者たちに伝えたのだ。
「おお、
「
歓声は先程の数倍、もはや喉が裂けそうなほどの轟音となって、国会議事堂前で響き渡った。
俺の意識は少しずつ薄れていく。こういう時、ぱったりと途切れるもんじゃないんだなと、俺は最後までどうしようもないことを考えるしかなかった。この後は、チンチンが俺の代わりに思考するんだろう。体は厳密には死なないで、俺の意識を作っていた脳だけが死ぬ。
俺は俺じゃなくなるんだ。でも、だから、せめて最後くらい、ユキ姉の顔を見たかったな。彼女はどんな顔をしているのだろうか。
「ぐぅっ!」
「
「貴様、何をしている!」
死にゆくはずの脳に、強烈な、それまで感じたことのない電流が走った。
股間が痛い、痛い、痛い! いや? 気持ちいい、気持ちいい、なんだこれ、気持ちいいっ!
陰茎に――自分を含め誰にも握ることが許されなかったあの陰茎に、突如として刺激的な摩擦の感覚が起こったのだ。
正体は大倉ユキ。彼女は皆が歓喜に酔ったその隙を突くと、俺の其にしがみついて猛スピードで擦りだした。
しかもただの摩擦ではない。その手にはエグいイボがついたゴム製のグローブが嵌められていた。効率的に何かを刺激するために開発されたとしか思えない、あまりにも、あまりにもなグローブだ。
「痛い、痛いよ、ユキ姉!」
「我慢しなさい! 男の子でしょ!?」
「誰かあの女を止めろ! 其が、其が逝ってしまう!」
信者の数人が装甲車にしがみつき、登ろうとする。俺は痛みに悶えながら叫んだ。
「邪魔するな! これが神の証明なんだよ、黙って見てろ!」
「な、しかし……!」
「黙ってろ! 黙って、俺が逝くとこ見てろっつってんだよ!」
この言葉が其によるものなのか、大倉コウスケのものなのか。信者たちの誰にも分からない。彼らは自分で思考せず、ただ言われたことを鵜呑みにしてきただけだ。信者の誰しもが「其がそう言うのなら……」とエグいグローブによって刺激される男の姿をただ見ているしかなかった。
「
「俺は其は神なんか真なるところのどうでもいい在り処をしっているだから故に俺の其の逝くとこ生誕を邪魔すんじゃねえ黙して見届けよこのクソったれ!!」
「ああ、そんな……其よ、神よ……」
陰茎に血が集まる。頭がますます冴えるようだ。俺の言葉と其の言葉が混濁して、もはや言語の一切はくだらなく思えた。
どうしてここに脳があるのだとか、どうして人は不幸になるのだとか、どうして人は死ぬのだとか、どうして俺はまだ死んでないのだとか。そんなことは些細なことなんだ。
俺のチンチンよ、お前が本当に神というのなら、最後にやるべきことがあるはずだ。そうだろう?
「人類の最終命題、神の是非はここに定まった! 其は誕生し、その産声で人々の蒙を啓く! 故、神として世々全ての者にこの言葉を授けよう!」
信者たちが見ている。
ユキ姉の、其を握る手が強くなる。
聖なる山の頂きはもうすぐそこまで来ている。
――やがて、身体を端から端まで貫く、神の怒りのような電流が全身を駆け巡った。
曰く、まず初めに言葉あり。
その言葉なくして神の存在は証明されない。
そして、その言葉の後に神は姿を消すのだ。
故に神はどこにも存在しない。それこそが命題の答えだった。
少年よ、神話をなぞれ。
其は俺に語り掛けたあと、最後の力を振り絞り、そして――
「光あれ」
時は12月24日。
東京では局所的に、真っ白に輝く綺麗な新雪が観測された。
その日はある聖者の命日であり、またある賢者が産まれた日でもあった。
プルキンエ細胞増大に伴う運動機能の変化と身体機能の変容に関する報告書 泡森なつ @awamori
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