第2話 隻眼の騎士
村を飛び出してから、どれくらいの時間が経っただろう。
三日か、四日か。
空腹と渇きで、時間の感覚すら曖昧になっていた。
深い森の中。冷たい雨が降り注いでいる。
僕は大木の根元にうずくまり、ガタガタと震えていた。
「寒い……痛いよ……」
額の傷は化膿し始めてズキズキと痛む。
でも、もっと怖いのは右腕だった。
あの時、異形化した右腕は、時間が経つにつれて元の肌色に戻っていった。
今は見た目こそ普通の人間の腕だ。
けれど、皮膚の下には「何か」が脈打っているのがわかる。
ドクン、ドクンと、黒くて熱い何かが、僕の体を蝕んでいるような感覚。
「……出てくるな。お願いだから」
僕はボロボロになった服の袖を無理やり引き伸ばし、右腕を隠すように縛った。
これを見られたら、また石を投げられる。
また、大好きな人たちに拒絶される。
――死んじゃおうかな。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
村には帰れない。
行くあてもない。
魔物におびえ、人間に嫌われ、一人で生きていくなんて無理だ。
意識が遠のいていく。
雨音が遠くなる。
このまま眠れば、もう痛くないかもしれない――。
ザッ、ザッ、ザッ。
泥を踏みしめる、重い足音が聞こえた。
魔物じゃない。
二本足の、人間の足音だ。
(人間……! 見つかったら殺される!)
僕は弾かれたように顔を上げた。
雨のカーテンの向こうから、一人の男が歩いてくる。
灰色のマントを羽織った、大柄な老人だった。
腰には使い込まれた剣を差し、左目は眼帯で覆われている。
残った右目は、鷲のように鋭く僕を射抜いていた。
「……おい」
低い、腹に響くような声だった。
老人が僕を見下ろす。
「こんなところで何をしておる。ここは魔物の縄張りじゃぞ」
僕は反射的に後ずさった。
右腕を背中に隠し、必死に首を振る。
「こ、来ないで……! あっち行って!」
「ほう? 怪我をしておるな。見せてみろ」
老人が一歩近づく。
その威圧感は、村一番の力持ちだった鍛冶屋のおじさんなんかより、ずっと怖かった。
でも、捕まるわけにはいかない。
「触るなッ! 僕は……僕は化け物なんだぞ!」
精一杯の虚勢を張って叫ぶ。
これで怖がって逃げてくれればいい。
あるいは、剣を抜いて殺してくれれば、それで終わる。
老人は、眉一つ動かさなかった。
絶望し、死を受け入れようとしている僕の瞳を、彼は逃さじと見据えている。
その眼差しは「お前は、本当にここで終わるのか」と、魂を試しているようでもあった。
鼻でフン、と笑う。
「化け物、か。……たしかに、ひどい顔をしておるわ」
「え……?」
「泥と血と涙でぐちゃぐちゃじゃ。これではゴブリンも逃げ出すわい」
老人は呆れたように肩をすくめると、僕の目の前にしゃがみ込んだ。
そして、懐から何かを取り出し、無造作に放り投げてきた。
ゴロリと泥の上に転がったのは――干し肉だった。
「食え」
「……え?」
「死にたいなら止めん。だが、腹が減ったまま死ぬのは惨めだぞ」
食べ物の匂いがした瞬間、お腹が勝手に鳴った。
僕は迷いながらも、泥だらけの干し肉を拾い、
硬くて、しょっぱくて、泥の味がした。
でも、涙が出るほど美味しかった。
夢中で肉を食べている僕を、老人は黙って見つめていた。
その瞬間、彼の頬がわずかに緩んだのを僕は知らない。
泥を噛んででも「生きる」ことを選んだ僕を、彼がどれほどの誇りを持って見守っていたか、当時の僕は知る由もなかったんだ。
そして、僕が食べ終わるのを見計らって、不意に手を伸ばしてきた。
「ひっ!」
「動くな」
老人の太い指が、僕の額の傷に触れる。
乱暴にされるかと思って身構えたが、その手つきは驚くほど優しかった。
水筒の水で傷口を洗い、清潔な布を当ててくれる。
「……なんで?」
僕は震える声で尋ねた。
「僕、化け物なのに。どうして優しくするの?」
「化け物かどうかは、わしが決めることじゃ」
老人は眼帯のない右目で、僕の目をじっと見つめた。
すべてを見透かすような、深い瞳だった。
「それに、お前のその右腕」
「ッ!?」
心臓が止まるかと思った。
隠していたはずなのに。バレている?
「……微かだが、妙な魔力を感じる。普通の人間のものではないな」
「や、やめて! 見ないで!」
僕はパニックになり、右腕を押さえて逃げようとした。
けれど、老人の手は鋼鉄のように僕の肩を掴んで離さなかった。
「逃げるな! 見ろ!!!」
空気が、ビリビリと震えた。
それは単なる大声ではなかった。
腹の底から絞り出された、物理的な衝撃すら伴うような強烈な
降り注ぐ激しい雨音が一瞬かき消され、森全体がその怒声に支配されたかのようだった。
僕は雷に打たれたように体が硬直し、呼吸することさえ忘れた。
怖い。
村人たちに向けられた殺意とはまた違う、圧倒的な強者による
蛇に睨まれた蛙のように、僕は指一本動かすことができず、ただガチガチと奥歯を鳴らしてその場に
「己の体じゃろうが!! 自分が目を背けてどうする!!!」
「だって……! これのせいで、みんなに嫌われたんだ! じっちゃんも、みんなも……!」
「それで? 誰かに嫌われたら、お前はお前であることをやめるのか?」
老人の言葉が、鋭利な刃物のように僕の胸を貫いた。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
反論しようとした。
「だって、僕は化け物だから」「みんながそう言うから」と、言い訳をしようとした。
でも、声が出なかった。
自分の気持ちが、わからなかったからだ。
怖い。 自分の中に眠る、この異質な力がどうしようもなく怖い。
でも、それを否定してしまったら、僕は僕じゃなくなってしまうのか?
嫌われたくない。でも、この腕はどうしてもここにある。
(どうすればいいんだ……どうすれば……!)
答えなんて見つからない。
ただ、得体の知れない恐怖と不安が渦巻いて、思考がぐちゃぐちゃになる。
僕は開いた口をパクパクとさせるだけで、返す言葉が何一つ見つからなかった。
「いいか、小僧。力そのものに善悪はない。包丁は人を殺せるが、料理を作って人を笑顔にもできる。要は『使い手』の心次第じゃ」
老人は僕の右腕――ボロボロの布越しに――ポン、と手を置いた。
「お前はその腕で、誰かを傷つけたかったのか?」
――違う。 僕は、じっちゃんを助けたかっただけだ。
「……助け、たかった」
「なら、胸を張れ。お前は誰も傷つけておらん。守ったんじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かがプツリと切れた。
あの日からずっと、誰かに言ってほしかった言葉。
肯定してほしかった言葉。
声にならない嗚咽が漏れ、僕は泥の上に泣き崩れた。
老人は慰めるでもなく、ただ僕が泣き止むのを黙って待っていてくれた。
雨が上がり、雲の切れ間から月が顔を出す頃。
老人は立ち上がり、僕に言った。
「名は?」
「……アレン」
「そうか。わしはガルド。ただの隠居騎士じゃ」
ガルドは背を向け、歩き出した。
数歩進んで、立ち止まる。
「いつまで座っておる。置いていくぞ」
その背中は、不思議と大きく、温かく見えた。
僕は慌てて涙を拭い、泥だらけの足で走り出した。
「う、うん……! 待って、ガルドさん!」
「『師匠』と呼べ。……まったく、世話の焼けるガキじゃ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた言葉とは裏腹に、その歩幅は、僕の短い足に合わせて驚くほどゆっくりだった。
今の僕には分からない。
彼がどれほどの覚悟で、僕の前に姿を現したのか。
僕が干し肉を齧った瞬間、彼がどれほど救われたような気持ちでいたのか。
ただ、そのマントの裾を追いかけていけば、もう道に迷うことはない。
根拠なんてどこにもないけれど、僕の心はそう確信していた。
こうして、僕と『師匠』の、奇妙な共同生活が始まった。
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