母の正夢
登場人物
草原に吹く風は、渇いている。
それと共に、如羅の腹は日増しに大きくなった。
突如、その扉を乱雑に開け放ち、ひとりの壮健な男が入って来た。被った
その粗野な男は、背負った荷を放り投げると、当前のように奥の
「お帰りなさいませ、
微笑を浮かべ、赤子を抱きながら云った如羅に、無骨な投鹿侯の視線が向けられると、その眼は大きく引き
投鹿侯は、この部族の
戦の匂いを沁み込ませた胡服の投鹿侯は、如羅との再会の喜びも忘れ、赤子を凝視した。
「……何だ、
赤子を抱えた如羅は、投鹿侯に向き直ると、
「聞いてくだされ、投鹿侯さま。ある日、牛の搾乳に外へ出ると、雷鳴が
如羅は、投鹿侯に身を寄せて続けた。
「天を見上げると稲妻が口に入り、思わず飲み込んでしまいました。すると、どういう訳か身重となり、
投鹿侯は、冷ややかな
「この子は、きっと、非凡な力を持っているに相違ございません」
如羅は、穏やかな笑みを赤子に向けた。
「変事はなかったかと、問うのも無駄なようだな」
投鹿侯は、胡床から腰を上げると、
「――――⁉」
「
投鹿侯は、貫くような鋭い視線を如羅へ放った。
「
如羅から笑みが消えていた。如羅は、投鹿侯から視線を
「私は、姦通などしておりませぬ! この子は、天より授かりし
如羅は、
「戯言は止せと云っている」
投鹿侯は、ゆっくりと剣を振り被った。
南匈奴と共に戦場を駈け巡り、
「怒りが頂点に達する前に、元の部族へ還れ。大人たる者が妻を手に掛けては、聞こえが悪い」
「……わかりました」
強い意志を込めた眼付きで、如羅は投鹿侯に一礼した。すぐさま荷物を
投鹿侯は剣を
「頼まれても、戻って来てやんねえかんな――‼」
外から聞こえてきたのは、如羅の怒声だった。
投鹿侯は、生気のない顔を上げると、穹廬の中を
投鹿侯は、肩を落とした。更なる疲労が襲ってきたのを覚えた。
如羅がその足で向かったのは、自分が生まれた部族の
如羅が育った部族は、この時期、
如羅にとって、生家とも云える穹廬を探すのは容易だった。それは、部族の中でも一際大きな穹廬だった。
その穹廬の側で、放牧された羊を騎馬で追っていたのは、知命の頃の男だった。黒髪を白い
赤子を抱き、穹廬に歩を寄せる如羅に気付いたその男は、馬を寄せて下馬した。
「
驚きの表情を
「久しぶりね、
「私も奥さまも元気にしてございますが……その赤子は?」
眼を
李平は、如羅が生まれる前から仕える漢人の使用人だった。いつぞや、如羅の父が漢から連れて来た者で、今や鮮卑の暮らし振りにも馴染んでいた。
如羅は、満悦の笑みで云った。
「私の子よ。天より授かったの」
「……天から……でございますか。なるほど、道理で健やかな寝顔でございますな」
如羅の人となりを知る李平は、妙に納得した様子になると、優しげな笑みを浮かせた。
「ささ、奥さまも中に居ります。ゆっくりされるが
李平の笑みに、如羅は懐かしさと
「奥さま、嬢さまがお見えですぞ」
広い穹廬の中には、胡床に腰を下ろし、編み物をしている淑女の姿があった。李平と同じほどの年齢に見える。如羅の母親、
「
如羅の声に破多羅は顔を上げると、にことした笑みを向け、すぐさま手許へ視線を戻した。
「夢の中で、我が夫が騒いでいたとおりになったわ」
「父さまが……?」
如羅の顔に
如羅の父は部族の大人だったが、如羅が生まれて間もなく世を去っていた。
「近頃、頻繁に夢に出てきてね。如羅が赤子と共に還ってくると騒ぎ立てるのよ」
破多羅は、編み物を置くと腰を上げ、如羅へその身を寄せた。微笑を浮かべ、眠る赤子に細い眼を向けている。
「夢の中で
「な、何て……?」
如羅の眉間の皺が、一層濃くなった。
「孫を大切に育てて欲しい――って」
如羅の
「あれほど戦に明け暮れ、私たちにも厳しかった人が、
破多羅は、如羅から赤子を慎重に抱き寄せた。
「どうやら、夢のお告げは本当だったみたいね。大丈夫。この子は、
「母さま……」
笑顔となった如羅は、膝から崩れ落ちると、よよと
「ささ、嬢さま。
如羅の後方で
「詳しい話は後ほど聞きましょう。それにしても、懐かしい重さねえ。李平も見てみなさい。私の孫の寝顔ときたら、驚くほど可愛らしいわ」
屈託のない笑顔の破多羅は、何やら自慢げだった。
「奥さま、私にも嬢さまのお子を抱かせてくだされ」
温かな酪の準備で、忙しそうにした李平にも笑みが浮いていた。
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