第3話 絶対安全圏と、懐かしのワンルーム
「……ここなら、大丈夫……?」
周囲を見渡す。
そこは、木々の密度が一段と濃くなった森の深部だった。
太陽の光は分厚い葉に遮られ、薄暗い。
聞こえるのは風の音だけ。
あの耳障りな甲殻類の足音も、人を噛み砕く音も、もう聞こえない。
私はビクビクと背後を振り返った。
何もいない。
揺れる草むらを見ては「あのアリかもしれない」と肩を跳ねさせ、落ちてきた枯れ葉を見ては「毒液かもしれない」と身を縮こまらせる。
過剰反応だと分かっていても、止まらない。
あの光景が、瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。
ドロリと溢れた体液。鮮やかな赤。生々しい肉の断面。
――嫌だ。怖い。
地面に立っているのが怖かった。
土の下から、あのアリが這い出てくるんじゃないか。
草むらの陰から、あの顎が伸びてくるんじゃないか。
そう思うと、足の裏が焼け付くように熱く感じられた。
「高いところ……そう、高いところなら」
地面から離れたい。
絶対に奴らが登ってこられないような、あるいは登ってきてもすぐに叩き落とせるような、高い場所。
私は目の前にそびえ立つ、ひときわ巨大な古木を見上げた。
大人が十人で手をつないでも囲いきれないほどの太い幹。
天を突く高さ。
ここならいい。
ここに、私だけの城を作るんだ。
私は目を閉じ、強く念じた。
スキル『森羅万象』。
女神は「何でもできる」と言っていた。
なら、家一軒作ることくらい造作もないはずだ。
イメージするのは、絶対的な安全。
風雨をしのぎ、外敵を寄せ付けず、私が私らしくいられる場所。
「……お願い、家を。私が安心できる、私だけの家を!」
カッ、と脳内で回路が繋がる感覚があった。
魔力が奔流となって体から溢れ出し、世界に干渉する。
ズズズズズ……ッ。
重低音が響き、巨木が軋んだ。
幹の一部が生き物のように隆起し、ねじれ、形を変えていく。
枝が編み込まれ、樹皮が壁となり、葉が屋根を覆う。
それは魔法のような、あるいは早送りの映像を見ているような光景だった。
数秒もしないうちに、地上十メートルほどの高さにある太い枝の上に、一軒の家が出現していた。
木の幹に抱かれるように設計された、隠れ家のような住居。
外観は周囲の木々に溶け込むような色合いだが、その壁は見るからに分厚く、窓も小さく、守りに徹していることが分かる。
「で、できた……」
私は呆然と見上げた。
本当にできた。
想像した通りの、空中の要塞だ。
あそこに入れば助かる。
あそこなら、あのアリも入ってこられない。
早く、早く中に入りたい。
私は幹に駆け寄り、そして気づいた。
「……あ」
階段を作るのを忘れた。
入り口であるドアは、遥か頭上。
十メートル以上高い場所にある。
梯子もない。ロープもない。ツルツルとした幹があるだけだ。
馬鹿だ。焦りすぎて、肝心な移動手段を考えていなかった。
今から作り直す? いや、またスキルを発動して、変な風に崩れたらどうする?
思考が空回りする。
けれど、ふと自分の足元を見た。
『森羅万象』による身体強化。
今の私なら、もしかして。
「……いける?」
根拠はなかった。
でも、体の中を巡る万能感が「できる」と囁いている。
私は軽く膝を曲げた。
グッ、と地面を踏みしめる。
そして、弾かれるように跳んだ。
ヒュンッ!
風を切る音。
視界が一瞬でスライドし、地面が遠ざかる。
体が、羽毛のように軽い。
重力なんて存在しないかのように、私の体は垂直に舞い上がった。
十メートルの高さなんて、今の私にはスキップ一回分に過ぎなかった。
タンッ。
あまりにも呆気なく、私はツリーハウスの前に張り出したテラスに着地していた。
手すりに手をかけ、下を見下ろす。高い。
ここなら、アリが来てもすぐに見つけられるし、上から石でも落とせば撃退できるだろう。
ようやく、少しだけ安堵の息が漏れた。
さて、問題は中身だ。
外観は木の家に合わせたけれど、内装はどうなっているだろうか。
「安心できる家」と念じたけれど、具体的な間取りまでは指定しなかった気がする。
まあ、雨風がしのげれば何でもいい。
藁のベッドでも、板張りの床でも、外にいるより一億倍マシだ。
私は震える手を伸ばし、ドアノブを握った。
ひんやりとした金属の感触。
ガチャリ、と回す。
ドアが、音もなく開いた。
「……え?」
一歩踏み込んだ瞬間、私は言葉を失った。
そこに広がっていたのは、ファンタジーな木の部屋ではなかった。
かといって、豪華絢爛な王族の部屋でもない。
そこは、見慣れた「1K」だった。
フローリングの床。白いクロスが貼られた壁。
左手には小さなシステムキッチン。
シンクには、今朝洗う時間がなくて放置したマグカップまで再現されている。
右手にはユニットバスへの扉。
そして奥には、六畳の居室。
ローテーブルの上には、読みかけのファッション雑誌と、テレビのリモコンが雑に置かれている。
ベッドの上には、脱ぎ捨てたパジャマ代わりのTシャツが丸まっている。
カーテンは、私が悩んで選んだ、遮光一級のベージュのカーテンだ。
部屋の隅で唸る、冷蔵庫のモーター音。
「う、そ……私の、部屋……?」
東京で、私が一人暮らしをしていたアパートの部屋。
それが、そのままここにあった。
『森羅万象』が、私の深層心理にあった「一番安心できる場所」を読み取って、完璧に再現してしまったのだ。
散らかり具合も、空気の匂いも、何一つ変わらない。
スニーカーを脱いで、上がる。
スリッパを履く。足裏に伝わる、安っぽいフローリングの感触。
涙が出そうだった。
異世界転移なんて嘘だったんじゃないかと思うほど、ここは「日常」だった。
でも、窓の外を見れば、そこには鬱蒼とした森が広がっている。
そのギャップが、ここが異界の孤島であることを残酷に突きつけてくるけれど、同時に強烈な守られている感覚を与えてくれた。
バタン。
私はドアを閉めた。
そして、鍵をかける。
ガチャリ。
さらに、U字ロックとドアチェーンをかける。
シャラッ、ガチャン。
この音。
この、物理的に外界と遮断された音を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「はぁぁぁぁぁぁ…………」
その場に座り込む。
腰が抜けたように動けなくなった。
怖かった。本当に怖かった。
あのグロテスクな光景。死の臭い。
それが、このドア一枚隔てた向こう側にある。
でも、ここにはない。
ここだけは、私の世界だ。
「……お風呂」
這うようにして立ち上がり、ユニットバスへ向かった。
蛇口を捻る。
ガスも水道も通っていないはずなのに、スキルのおかげか、温かいお湯が勢いよくほとばしった。
服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。
熱いお湯が頭から降り注ぎ、冷え切った体を温めていく。
ゴシゴシと肌を擦った。
血なんて浴びていないはずなのに、あの臭いが染みついている気がして、何度も何度もボディソープで体を洗った。
フローラルの安っぽい香りが、こんなにも愛おしいなんて知らなかった。
体を拭き、クローゼットを開ける。
そこには、私の服がずらりと並んでいた。スウェット上下を取り出し、着替える。
肌触りの良いコットンの感触に包まれると、ようやく生きた心地がした。
私は部屋の奥へ進み、ベッドに倒れ込んだ。
スプリングの少しへたった、愛用のマットレス。
布団を頭までかぶり、丸まる。
暗くて、狭くて、温かい。
「……もう、出ない」
布団の中で、私は小さく呟いた。
「絶対に出ない。戦うなんて無理。勇者なんて知らない」
あんな地獄を見るくらいなら、ここで一生引きこもっていた方がいい。
食料はどうする? 『森羅万象』で出せばいい。
水も電気も、この部屋なら困らない。
暇つぶしの雑誌もある。
女神様には悪いけど、私はここでリタイアさせてもらう。
人類が滅びようが、世界がどうなろうが、私には関係ない。
私はただ、平穏に生きたいだけなんだ。
瞼が重くなる。
恐怖と疲労の波が、一気に押し寄せてきた。
遠くで何かが叫んでいるような気がしたけれど、私は耳を塞ぎ、意識を深い闇へと沈めていった。
ここは安全。ここは私の城。
誰にも邪魔させない、絶対不可侵の聖域なのだから。
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