第2話 理想の異世界、現実の残酷

光の渦が収束し、足裏に確かな感触が戻ってくる。  

私は恐る恐る目を開けた。


「……うわ、すごい」


第一声は、素直な感嘆だった。  

視界いっぱいに広がるのは、深く濃い緑。

天を突くような巨木が立ち並び、木漏れ日が天然のスポットライトのように地面の苔を照らしている。  

空気を吸い込むと、湿った土と草いきれの匂いが肺を満たした。

東京の排気ガス混じりの空気とは違う、濃厚で生命力に溢れた酸素の味。  

耳を澄ませば、聞いたこともない鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。  

マイナスイオン、という言葉が陳腐に感じるほどの清涼感だ。


「本当に、異世界なんだ」


頬をつねってみる。痛い。夢じゃない。  

先ほどの女神とのやり取りが嘘のように、目の前の光景は美しかった。  

ファンタジー映画のセットの中に迷い込んだようだ。

これなら、案外悪くないかもしれない。  

私は自分の体を見下ろした。服装は大学へ行くつもりだった時のまま、アイボリーのニットにロングスカート。足元は履き慣れたスニーカー。  

装備としては心許ないことこの上ないが、体の内側には確かな変化を感じていた。


体が軽いのだ。

羽が生えたように体が軽く、指先まで力がみなぎっている。

視界も異常にクリアで、遥か遠くの木の葉の葉脈までが見える気がした。  

『森羅万象』と『不老不死』。  

女神が適当にくれた二つのチートスキルが、私の肉体を「人間」の枠組みから外れた何かに作り変えた感覚があった。


「これなら……いけるかも?」


魔獣がどうとか言っていたけれど、私にはこの力がある。  

ゲームで言うなら、レベル1で最強装備とカンストステータスを持っているようなものだ。

スライムやゴブリンが出てきても、指先一つで倒せるんじゃないだろうか。  

そんな楽観的な思考が頭をもたげる。  


あのやる気のない女神の態度には腹が立ったけれど、結果的に最強の力を手に入れたのなら、異世界ライフも満更ではない。

美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、たまに人助けをして感謝される。

そんな悠々自適なスローライフが待っているかもしれない。


キィィィィン!


不意に、金属同士が激しくぶつかり合うような硬質な音が響いた。  

風に乗って、微かに何かが焦げたような臭いと、怒号が聞こえてくる。


「……音、あっちだ」


私は音のする方角へ顔を向けた。  

戦闘音だ。誰かが戦っている。  

普通なら怯えるところだけど、今の私には根拠のない自信があった。  

勇者として選ばれたのだから、これが最初のイベントなのだろう。

困っている人を助けて、情報を貰い、あわよくば宿と食事を提供してもらう。

RPGの王道導入だ。

 

私は軽い足取りで、音のする方へと森を駆け抜けた。  

速い。地面を蹴るたびに景色が後ろへ吹き飛んでいく。

時速何キロ出ているのか分からないけれど、今の私ならオリンピック選手さえ置き去りにできるだろう。

風を切る感覚が心地いい。  

きっと、村人たちが弱いモンスターに囲まれて困っているんだ。

そこに颯爽と現れた私が、魔法か剣で一網打尽にする。  


そんな、甘い空想を描いていた。


数分も走ると、森が開けた。  

そこには、小さな集落があった。  

木造の質素な家々。畑。そして、その外縁部で――それは起きていた。


「う、わ……」


足が止まる。  

期待していた「冒険の始まり」のワクワク感は、一瞬で消し飛んだ。  

代わりにせり上がってきたのは、強烈な生理的嫌悪感だった。


そこにいたのは、アリだ。  

ただし、私が知っている可愛いサイズのアリではない。  

体長は大型犬ほどもあるだろうか。黒光りする硬質な外殻に覆われた、巨大なアリの群れ。  

それが数十、いや百匹近く、波のように村へ押し寄せていた。


「突き崩せぇぇ! これ以上中に入れるなぁ!」

「魔法部隊、障壁を維持しろ! 酸が来るぞッ!」


対する人間側も必死だった。  

村人や自警団らしき男たちが、長い槍や剣を振るい、必死に防衛線を張っている。  

戦況は、拮抗していた。  

それが余計に、地獄の解像度を上げていた。


人間たちは、死に物狂いで抵抗していた。  

「おおぉぉぉ!」と雄叫びを上げた一人の男が、巨大アリの頭部に槍を突き立てる。

グシャリ、という湿った音が響き、硬い殻が砕ける。

断面から白濁した体液がドロリと溢れ出し、アリはビクビクと痙攣して横倒しになった。  

別の場所では、魔法使いらしき人物が炎を放ち、数匹のアリを焼き払っている。

焦げたタンパク質の嫌な臭いが鼻をつく。  

殺している。人間が、魔獣を殺している。  

地面にはすでに何匹ものアリの死骸が転がり、白い体液の水たまりを作っていた。


だが、そのすぐ横では、人間が死んでいた。


巨大な顎(あご)に胴体を挟まれた男が、なすすべもなく持ち上げられている。  バキバキ、ゴリ、という骨が砕ける音が、ここまで聞こえてきた。  

男の口から鮮血が噴き出す。  

アリは容赦なく、その鋭利な顎を閉じた。  

まるで熟れたトマトのように、人体が千切れる。  

上半身と下半身が別々の方向に落ち、ピンク色の内臓が地面にぶちまけられた。


「ヒッ……」


喉の奥から、短い悲鳴が漏れた。  

ゲームじゃない。  

HPバーが減って、キラキラした光になって消えるんじゃない。  

そこにあるのは、圧倒的な「生物としての殺し合い」と「死」だった。

 

血の赤。体液の白。混じり合って地面を泥濘(ぬかる)ませる液体。  

鼻を突くのは、鉄錆のような血の臭いと、鼻腔を焼くような酸の刺激臭。  

人がアリを殺し、アリが人を食う。  

どちらかが死に絶えるまで終わらない、泥沼の消耗戦。


ギチチチチチッ!


仲間を殺されたアリたちが、怒り狂ったように触角を震わせ、カチカチと顎を鳴らす。  

その複眼の一つが、森の入り口に立っていた私を捉えた気がした。  

無機質な、感情の一切読めない昆虫の目。  

多脚が生み出すカサカサという音。  


――無理。


本能が、警報を鳴らした。  

戦える? 私が? あれと?  


あんな、中身が詰まったグロテスクな袋みたいな生き物を、剣で切ったり叩き潰したりするの?  

そのたびに、あのドロドロした汁が私にかかるの?  

あのアリの殻の硬さを、私の腕が覚えるの?  


それに、もし噛まれたら。  

『不老不死』だから死なないかもしれない。

でも、あの顎で体を両断される痛みは? 

内臓を食い荒らされる感覚は? 

死なないまま、生きたまま捕食され続ける恐怖は?


「おぇ……ッ」


胃液が逆流しかけた。  

無理だ。絶対に無理。  

私はただの女子大生だ。

喧嘩もしたことなければ、魚を捌くのだって苦手だった。  

そんな人間が、いきなりこんな地獄絵図の中に放り込まれて、「はい、勇者だから戦って」なんて言われても、体が動くわけがない。


村の人たちが命がけで戦っているのは分かった。  

私が加勢すれば、もしかしたらこの戦況をひっくり返せるのかもしれない。  

でも、足が前へ出ない。  

それどころか、膝がガクガクと笑って、今にも座り込んでしまいそうだ。


助けなきゃ、なんて正義感は一ミリも湧いてこなかった。  

見捨てていいのか、という罪悪感すら浮かばない。  

ただひたすらに、気持ち悪い。怖い。痛そう。嫌だ。  

目の前の光景を拒絶する感情だけが、私の心を埋め尽くしていた。


アリの一匹が、こちらに気づいて向きを変えた。  

ギチッ、と顎が開かれる。  

その瞬間、私の体は思考よりも速く動いていた。


私は踵(きびす)を返していた。


「はぁ、はぁ、っ……!」


一度背を向けてしまえば、あとは早かった。  

私は全速力で走り出した。  

村とは逆方向へ。

あの地獄のような光景が見えなくなる場所へ。  

全力疾走。人生で一番速く、必死に走った。  

『森羅万象』の身体能力強化のおかげか、息は切れない。足も疲れない。  

だけど心臓だけが、早鐘を打って破裂しそうだった。


後ろから誰かの叫び声が聞こえたような気がした。  

助けを求める声だったかもしれない。  

でも、振り返らなかった。振り返れなかった。  


もし振り返って、あのアリが追いかけてきていたら? 

もし、助けを求める人の手が、食いちぎられていたら?  

想像するだけで発狂しそうだった。


風を切る音が耳元で轟く。  

景色が線になって流れる。  

木の根を飛び越え、藪を突き破り、私は獣のように森の奥へと逃げ込んだ。


無理無理無理!  あんなの勝てるわけない!  

生物としての作りが違う! あんなのと戦うなんて正気じゃない!  

女神様は「魔獣が強い」って言ってたけど、強いとか弱いとか、そういうレベルの話じゃない。


あれは災害だ。意思の通じない、食欲だけの暴力だ。  

あんなのと戦うために呼ばれたの?  

ふざけないでよ。  

私はただ平穏に暮らしたいだけなのに。


どれくらい走っただろうか。  

数分か、数十分か。  

背後から聞こえていた金属音も、悲鳴も、あのおぞましい顎を鳴らす音も、完全に聞こえなくなった。  

周囲は再び、静寂な森の姿を取り戻していた。


私は太い木の幹に手をつき、荒い呼吸を整えた。  

といっても、息が切れているのは精神的なパニックのせいだけで、肉体的には全く疲れていなかった。

それがまた、自分の体が普通ではないことを再確認させて、奇妙な寒気を誘った。


「……はぁ、はぁ……」


膝から力が抜け、その場にへたり込む。  

土の冷たさが心地よかった。  

瞼を閉じても、脳裏にはあの光景が焼き付いている。  

引きちぎられた人間の体。

砕け散るアリの頭部。  

あれが、この世界の日常なのか。


私は震える手で自分の二の腕を抱いた。  

勇者? 人類を救う?  

悪いけど、私には荷が重すぎる。  


あんなのと戦うくらいなら、この森の奥で一生苔を食べて暮らした方がマシだ。  

ここなら、誰も来ない。  

あのアリだって、ここまで追ってはこないはずだ。  

そう信じ込むしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る