第3話 聖域の浸食

 事件から数週間後。

 渋谷の惨劇は「未解決の通り魔・ひき逃げ事件」として世間の片隅に追いやられつつあった。

​ 左腕を吊った健太は、冬の冷たい空気が流れ込む大学の講堂で、一人ノートを広げていた。美咲はまだ、病院のベッドで深い眠りの中にいる。あの日、彼女を突き飛ばした直後に自分を襲った衝撃と、霧の中に消えた黒いSUVの影。それが今も健太の脳裏を離れない。

​「……あいつは、死んでいなかったのか」

​ 健太がそう呟いたのは、事件現場に残されていたはずの「折れ曲がった鎌」が、警察の証拠品保管庫から消えたという噂を耳にしたからだった。

​ 冬期休暇直前のキャンパスは、人影もまばらで静まり返っている。

 日が落ち、オレンジ色の街灯が点灯し始めた頃、健太は研究棟の長い廊下で**「それ」**を聞いた。

​――コツ、コツ。

​ アスファルトではなく、磨き上げられたリノリウムの床を叩く、硬質な金属音。

 それは、病室で毎晩うなされる悪夢の中で聴き続けた、あのリズムだった。

​「嘘だろ……ここは四階だぞ」

​ 健太は血の気が引くのを感じながら、エレベーターホールへ向かって走り出した。しかし、角を曲がった先で彼が目にしたのは、無残に破壊された防火扉と、その奥に立つ影だった。

​ 逆光の中で、男のシルエットがゆらりと揺れる。

男の右手には、あの夜よりもさらに鋭く、禍々しく研ぎ澄まされた「鎌」が握られていた。刃には、先ほどまで学内にいたであろう警備員の制服の切れ端がこびりついている。

​「……みつけたぞ」

​ 男の声は、もはや人間のそれではない。ひき逃げの衝撃で潰れたはずの喉から漏れる、獣の唸り声。

​「美咲はどこだ。あの車は、どこへ行った」

​ 男は鎌を床に引きずりながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その足取りは不自然に歪んでいるが、速度は異常に速い。

​「車……? 待て、お前もあの車を追っているのか!?」

​ 健太の問いに、男は答えなかった。ただ、鎌を大きく振りかぶり、学食の重いテーブルを紙細工のように一刀両断にする。

 逃げ場のないキャンパス。

 かつては「日常」の象徴だった学び舎が、いまや鉄の刃が支配する狩場へと変貌していた。

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