第四十七話 おかえりを言えた夜

 剣を納めた瞬間、足が震えた。


 戦いが終わったからじゃない。

 力を抜いたからでもない。


 胸の奥に溜め込んでいたものが、

 一気に溢れ出してきたからだ。


 勝った。

 守れた。

 生きている。


 それだけでも十分すぎるはずなのに、

 理由が分かってしまった。


 ——戻ってきた。


 喉の奥が、きゅっと詰まる。


 笑おうとして、失敗する。

 代わりに、視界が滲んだ。


「……っ」


 声にならない息が漏れる。


 セレナは慌てて顔を伏せる。

 まだ、前線だ。

 師団長が泣く場所じゃない。


 分かっているのに、止まらなかった。


 涙が、勝手に落ちてくる。


 理由は、いくらでもあった。


 助けられたから。

 戦況が覆ったから。

 仲間が生きているから。


 でも、本当は違う。


 あの人が、戻ってきた。


 ただ、それだけだ。


 怖かった。

 ずっと。


 前線を預かる立場になってから、

 弱音を吐く場所はなかった。


 英雄と呼ばれ、

 期待され、

 下がれない戦場に立ち続けてきた。


 それでも、

 背中を預けられる人がいると思えた瞬間、

 全部が崩れた。


 「……ほんとに……」


 声が震える。


 名前を呼びそうになって、堪えた。


 今はまだ、駄目だ。


 でも、もう我慢はしない。


 涙を拭うこともせず、

 セレナは鎧を直し、歩き出す。


 仲間たちが声を上げているのが聞こえる。

 生き残った喜びを分かち合おうとしている。


 けれど、足はそちらへ向かない。


 行く場所は、決まっている。


 後方。


 治療の灯りが消えない場所。


 胸が、熱い。


 息を吸うたびに、

 嬉しさが込み上げてくる。


 ありがとう。

 助けられた。

 戻ってきてくれて。


 言いたい言葉が、溢れて止まらない。


 走り出したいのを、必死に抑える。


 師団長としてではなく、

 英雄としてでもなく、


 ただのセレナとして、

 会いに行きたかった。


 ——おかえりなさい。


 その一言を言うためだけに。


 まだ、このときは知らない。


 この喜びが、

 次の瞬間に居場所を失うことを。

 後方の天蓋に近づいたとき、音が先に届いた。


 低い声。

 笑い。

 短い歓声。


 治療の慌ただしさは、もうない。

 火は落ち着き、布の影も揺れていない。


 すでに、終わっていた。


 天蓋の入口で、伝令が声を張っている。


「前線より報告!

 敵、完全に撤退!

 こちらの損耗、想定以下!」


 一瞬、間があって——

 次の瞬間、空気が弾けた。


 拳が上がり、

 肩を叩き合い、

 誰かが深く息を吐いて座り込む。


 大逆転だった。


 耐え切ったのではない。

 押し返したのでもない。


 流れそのものが、こちらに傾いた。


 セレナは、その輪の中へ踏み込む。


 視界を走らせ、

 探す必要もなく、すぐに見つけた。


 そこにいた。


 血の付いていない服。

 静かな立ち姿。

 周囲と同じように、喜びの中にいながら、

 少しだけ距離を取って立っている。


 ——レオン。


 胸が、ぎゅっと締め付けられた。


 言葉は、もう整っていない。

 考える余裕もなかった。


 セレナは、歩くのをやめて、

 そのまま抱きついた。


 鎧の音が、かすかに鳴る。


 強く。

 迷いなく。


「……ありがとう」


 声が震れる。


 英雄としてじゃない。

 師団長としてでもない。


 昔からの、ただの呼び方で。


「……ほんとに、ありがとう」


 顔を埋めたまま、

 息を整えようとして、できなかった。


 涙が、また勝手に落ちる。


「おかえり」


 短い一言。


 でも、それ以上はいらなかった。


 戦場で言う言葉じゃない。

 立場を考えれば、なおさらだ。


 それでも。


 この瞬間だけは、

 肩書きも、役割も、全部いらなかった。


 大逆転の歓声が、

 すぐ近くで続いている。


 誰も、止めない。

 誰も、咎めない。


 ただ、

 戻ってきた人間を迎える場面として、

 そこにあった。


 セレナは、顔を上げる。


 泣き笑いのまま、

 もう一度、しっかりと抱き直した。


 今は、それでいい。


 ——今は。

 セレナは、抱きしめたまま目を閉じる。


 腕の中の感触が、懐かしすぎて。

 今の温度と、昔の時間が、静かに重なっていく。


 まだ剣が重く、

 鎧が身体に馴染んでいなかった頃。


 訓練場の朝は、いつも冷えていた。


 誰もいないはずの時間帯に、

 木剣の音が、一定の間隔で響いている。


 そこに行くと、だいたい彼がいる。


 地面にしゃがみ込み、

 何かを確認するように、

 足跡や土の跡を見ている。


「そんなところ見て、何が分かるのよ」


 声をかけると、顔を上げて、


「昨日、踏み込みの角度が変わりました」


 それだけ言う。


 剣の構えじゃない。

 勝ち負けでもない。


 どうでもいいような細部。


 でも、次の日に剣を振ると、

 確かに身体が少しだけ楽になる。


 悔しくて、

 でも腹が立つより先に、

 納得してしまう。


 それが、嫌だった。


 昼になると、訓練場の端で並んで座る。


 配給のパンは固くて、

 スープは薄い。


「まずい」


「ですね」


 それだけで笑う。


 話題は尽きないわけじゃない。

 むしろ、あまり話さない。


 それでも、隣にいるのが当たり前だった。


 怪我をすると、必ず彼がいる。


 血が出ていれば、

 声を荒げる前に手を取られ、


「まだ動けますか」


 そう聞かれる。


 返事をする間もなく、

 もう処置が始まっている。


 痛みを誤魔化さない。

 でも、余計なこともしない。


 終わると、


「今日は無理をしないでください」


 それだけ。


 褒めもしない。

 労いもしない。


 でも、不思議と安心した。


 剣の稽古が終わったあと、

 夕暮れの訓練場で、

 何も話さず並んで座ることも多かった。


 風の音だけがして、

 誰も急かさない時間。


 その沈黙が、

 苦じゃなかった。


 それが、どれほど特別なことか、

 当時は考えもしなかった。


「英雄になりたい?」


 ある日、ふと聞いた。


 剣を磨きながら、

 何気なく。


 彼は少し考えてから、

 首を横に振った。


「向いてないです」


「どうして?」


「前に立つと、

 見えなくなるものが増えるので」


 意味は分からなかった。

 でも、その言い方が真剣で、

 それ以上、からかえなかった。


「じゃあ私は前に立つわ」


 冗談のつもりで言った。


「あなたは後ろにいなさい」


 彼は困ったように笑って、


「それなら、

 下がらなくていい位置を考えます」


 その言葉が、胸に残った。


 周囲が、少しずつ変わっていく。


 評価され、

 期待され、

 名前が先に出るようになる。


 セレナの立場が上がるほど、

 周りは距離を取った。


 でも、彼だけは変わらなかった。


 呼び方も、態度も。


「無茶しすぎです」


「師団長候補に言う言葉?」


「怪我人に言う言葉です」


 そう言われて、

 腹が立つのに笑ってしまう。


 悔しくて、

 でも、楽しかった。


 任務の愚痴も、

 眠れない夜の話も、

 うまく言えない不安も。


 彼は、聞くだけだ。


 励まさない。

 結論も出さない。


 でも、話し終わると、

 必ず少し楽になる。


 それが、親友じゃなくて何だというのか。


 だから、王都を離れると聞いたとき。


 最初に出てきたのは、寂しさじゃなかった。


 腹の奥が、かっと熱くなった。


「……なんで」


 思わず、強い声が出た。


 引き留めたい言葉も、

 理由を聞く余裕もなくて、

 置いていかれる感覚だけが先に来た。


 怒っているはずなのに、

 喉の奥が詰まって、

 視界が滲んだ。


 その場では、泣かなかった。


 英雄として、

 騎士として、

 強くあるべき立場だったから。


 でも、その夜。


 誰もいない場所で、

 鎧を脱いで、

 座り込んだまま。


 声を殺して、泣いた。


 怒りと一緒に、

 どうしようもない寂しさが込み上げてきて、

 止められなかった。


 ——行かないでほしい。


 その一言を、

 最後まで言えなかった自分が、

 一番、悔しかった。


 それでも。


 別れ際に向けられた表情が、

 いつもと変わらなかったから。


「また会いますよ」


 その言葉を、

 信じるしかなかった。


 信じたかった。


 だから今。


 この腕の中の感触を、

 疑う理由がなかった。


 昔も、今も。


 変わらないまま、

 ここにいる。


 そう思える時間が、

 今は何より大切だった。


 治療は終わり、

 誰もが肩の力を抜いている。


 火の揺れ方も、

 人の動きも、

 もう急ぐ必要のないものになっていた。


 セレナは、そっと腕を離す。


 名残惜しさはあったが、

 今はそれでいいと思えた。


「……生きててくれて、よかった」


 それだけ言って、

 小さく息を整える。


 英雄でもなく、

 師団長でもなく、

 ただの友人としての言葉だった。


 周囲から、笑い声が上がる。


 大逆転の実感が、

 ようやく全体に行き渡ってきた証だった。


 セレナは、その輪の中に戻らず、

 一歩だけ距離を取る。


 満ち足りていた。


 今は、それで十分だった。


 胸の奥に残るのは、

 喜びと、安堵と、

 変わらないと信じて疑わない確信。


 ——すべては、元に戻った。


 そう思える夜だった。


 このときは、まだ。

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引退した宮廷医、田舎で診療所を開いたら患者が英雄級でした @hayanedhi

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