第四十六話 戻ってきた英雄医

 夜明け前、担架が一つ戻されてきた。


 運んでいる兵の足取りが、他と違う。

 急いでいない。

 だが、慎重だった。


「……第五騎士団」


 誰かが小さく言った。


 布の下から覗いた髪の色を見て、

 周囲の空気が一瞬だけ張る。


 師団長だった。


 前線を支えていた、

 英雄と呼ばれている存在、セレナ。


 鎧は歪み、肩口は焼け、

 呼吸は浅い。

 だが、目は閉じていない。


 レオンは、その担架を見た瞬間に歩み寄った。


 声をかけない。

 名も呼ばない。


 ただ、状態を見る。


「……まだ動かせますね」


 それだけ言って、手を置く。


 治癒魔法が展開される。


 大きくは広げない。

 致命箇所だけを、正確に。


 焼けた筋肉を整え、

 砕けた骨を戻し、

 神経の断裂を繋ぐ。


 同時に、血流を制御する。


 回復しすぎない。

 戦場に戻るための強度だけを残す。


 最後に、深く息を吸わせる。


 師団長の胸が、大きく上下した。


「……あ」


 声が、戻る。


 レオンは、魔法を解いた。


「終わりです」


 その言い方は、いつも通りだった。


 師団長は、一瞬だけ呆けた顔をして――

 次の瞬間、上半身を起こす。


「……生きてる」


 そして、

 迷いなくレオンに抱きついた。


 鎧のまま。

 力任せに。


「戻ってきてたんだな」


 顔を近づけ、

 短く言う。


「勝つ」


 それだけだった。


 返事を待たず、

 師団長は立ち上がる。


 誰も止めない。


 鎧を直し、

 剣を取る。


 その背中を見て、

 前線の兵たちが動き出す。


 声は上がらない。


 だが、空気が変わる。


 英雄が、戻った。


 それも――

 完全な状態で。


 レオンは、その様子を見ていない。


 もう次の負傷者に手を置いている。


 勝利を宣言する必要はない。


 戦況は、

 すでに動いてしまっていた。

 剣を握った瞬間、身体が軽いと感じた。


 傷は、もうない。

 呼吸も、視界も、戦場の輪郭も、すべてが戻っている。


 セレナは前線へ走りながら、違和感を覚えていた。


 押されていたはずだ。

 守り切れず、下がり続けていたはずの配置が、崩れていない。


 兵が立っている。

 それも、踏ん張るために立っているのではない。


 戻ってきている。


 負傷して下げたはずの兵が、

 剣を取り直し、列に戻っている。


 補給が追いついたわけではない。

 奇襲でもない。


 理由が、見当たらない。


 斬り結びながら、セレナは前を見る。


 敵の動きが、鈍い。

 押し切れると思っていた圧が、消えている。


 そのとき、ふと理解が追いついた。


 これは戦術じゃない。


 削られるはずの時間が、削られていない。

 戻らないはずの命が、戻っている。


 だから、線が崩れない。


 だから、前に出られる。


 胸の奥で、ひとつの名前が浮かぶ。


 遅い。

 今さらだ。


 でも、確信だけははっきりしていた。


 レオンが、戻ってきている。


 直接見ていなくても分かる。

 この感触は、昔から知っている。


 無理をしない。

 焦らせない。

 でも、結果だけが追いついてくる。


 剣を振る腕に、力が入る。


 笑いそうになるのを、噛み殺す。


 ここは戦場だ。

 感情を前に出す場所じゃない。


 それでも、抑えきれなかった。


 前に出る。


 一歩。

 もう一歩。


 敵が下がる。


 理由は簡単だ。

 こちらが、折れなくなっている。


 胸の内で、言葉が溢れる。


 ——やっぱり、あなたなんだ。


 助けに来るわけじゃない。

 前に立つわけでもない。


 ただ、後ろを崩さない。


 それだけで、戦場は変わる。


 尊敬と、喜びと、

 どうしようもない安心感が、同時に込み上げる。


 セレナは、歯を食いしばって前を見る。


 あとでいい。

 言葉は、あとでいい。


 今はただ——


 この流れを、勝ち切る。

 敵の動きが、はっきり変わった。


 踏み込んでこない。

 押し返されると、深追いをしない。


 そして、線が下がる。


 撤退だと気づいたのは、誰よりも早く、前に立っていた者たちだった。


「……下がってる」


 誰かが言う。


 号令はない。

 だが、前線が理解する。


 これは押し返した撤退じゃない。

 続けられない側の判断だ。


 セレナは剣を構えたまま、足を止めた。


 追えば、崩せる。

 だが、それをしなくてもいいと分かる。


 敵の目が、もう前を見ていない。

 背後を気にしている。


 勝敗は、ここで決まっていた。


 剣を下ろす。


 息を吐く。


 その瞬間だった。


 胸の奥で、何かが一気にほどけた。


 押し殺していた感覚が、

 遅れて、形を持って流れ込んでくる。


 ——戻ってきた。


 理由も、証拠も、もう要らない。


 この戦況。

 この撤退。

 この、負けなかった夜。


 全部が、ひとつの答えだった。


 レオンが、ここにいる。


 前に立っていなくても。

 声をかけてこなくても。


 後ろが崩れないという、

 あの感触。


 昔から変わらない。


 胸が、熱くなる。


 戦場で感じていい種類の感情じゃないと分かっているのに、

 抑えきれなかった。


 喉の奥が、少しだけ詰まる。


 笑いそうになる。


 泣きそうにもなる。


 どちらも、今は邪魔だ。


 だから、セレナは短く息を吸い、

 剣を肩に担ぎ直した。


 まだ終わっていない。

 勝ったわけでもない。


 それでも。


 もう、負けない。


 その確信が、

 戦況よりも先に、胸に残った。


 セレナは、後方を見る。


 見えないはずの場所を。


 そこにいる人物を、思い浮かべながら。


 言葉は、まだ要らない。


 会うのは、

 すべてが終わってからでいい。


 今はただ、この撤退を——

 最後まで、確かなものにする。

 撤退が、完全なものになる。


 敵の背中が遠ざかり、

 戦場に、余計な音が消えていく。


 セレナは剣を収め、

 兜を外した。


 金の髪を束ねたまま、

 深く息を吐く。


 勝った、とは思わない。

 だが、守り切ったことだけは分かる。


 その理由を、

 もう疑っていなかった。


 レオンが戻ってきた。


 呼ばれたから来たのではない。

 命じられたからでもない。


 必要な場所に、

 当然のように立っている。


 ——あの人は、そういう人だ。


 胸の奥で、

 喜びが、ようやく形になる。


 遅れてきた分だけ、

 大きく、重い。


 会えなくてもいい。

 声を聞かなくてもいい。


 **生きて、働いている。**


 それだけで、

 今は十分だった。


 セレナは前を向く。


 戦場は、まだ片付いていない。


 だから、指揮官として声を出す。


「追うな。

 崩れたところだけ、押さえる」


 勇ましい声だった。


 だが、その背中は、

 どこか軽かった。


 ——終わったら、会いに行こう。


 この戦いのあとで、

 きっと言える。


 ——おかえりなさい、と。


 そう、信じたまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る