第四十五話 命が戻る場所

 馬車の扉が開いた瞬間、空気が変わった。


 血の匂いが濃い。

 鉄と土と、焼けた布の匂いが混じっている。


 担架は詰まり、叫び声が重なり、

 誰がどこを診ているのか、もう分からない。


 その中心に、レオンは降り立った。


 一歩も走らない。

 周囲を一度、見ただけだった。


「今から順を組み替えます」


 声は低く、通る。


「三列。

 歩ける人は後方。

 返事がある人は左。

 返事がない人は右」


 説明はしない。

 理由も言わない。


 それでも、人が動いた。


 レオンは、最初の負傷兵の胸に手を置いた。


 次の瞬間、治癒魔法が展開される。


 淡い光。

 だが、患部全体を覆わない。


 肺の周囲だけを正確に縁取るように、

 光が“留まる”。


「ここ、止血」


 言いながら、もう次を見ている。


 同時に、左手で魔法を維持したまま、

 右手で器具を取る。


 切る。


 魔法が、切断線の奥側で働く。

 血は出ない。

 組織が崩れない。


 止める。


 魔法が止血を代行する間に、

 物理的な処置が完了する。


 繋ぐ。


 ここで初めて、

 完全な治癒魔法が重ねられる。


 肺が、静かに動いた。


「次」


 振り向かない。


 その間にも、

 別の魔法が展開されている。


 腹部。

 内臓損傷。


 こちらは即時修復しない。


 代わりに、

 臓器の位置だけを“固定”する魔法。


 壊れたまま、

 動かないようにする。


「開腹は後。

 先に脚」


 脚部の重傷者に、視線を投げる。


 骨折。

 粉砕。


 ここで、治癒魔法を使わない。


 先に、整復。


 骨の位置を、

 “正しい場所に戻す”だけ。


 魔法は、骨を治さない。

 位置だけを拘束する。


 それを見ていた衛生兵が、息を呑む。


 真似しようとして、止まる。


 ――同じ魔法なのに、

 使い方が違う。


 治療は、三方向で同時に進んでいる。


 胸部:魔法維持+切開

 腹部:位置固定+後回し

 脚部:整復拘束+待機


 レオンは、どれにも意識を割いていない。


 全部を、一つの流れとして扱っている。


 指示は短い。


「そのまま維持」

「触らない」

「今、動かすな」


 言葉が出る前に、

 次の判断が終わっている。


 誰も、追いつけない。


 理解はできる。

 だが――


 同時に三つの魔法を“違う目的”で維持しながら、

 外科処置を挟む発想がない。


 魔法は補助ではない。

 主でもない。


 判断の一部だ。


 治療された兵が、息を吸う。


「……生きてる」


 それを聞いた瞬間、

 後方の動線が勝手に整う。


 担架が来る。

 治った兵が、次を運ぶ。


 制度側の人間が、口を開きかけて――

 何も言えずに閉じた。


 理由が、もう存在しない。


 エルシアは、記録を取っていた。


 手が、止まった。


 ペン先が、紙の上で震える。


 理解が、追いついてしまったからだ。


 ――治しているのではない。

 ――治癒魔法を使っているのでもない。


 戦場全体を、

 「治療が成立する構造」に書き換えている。


 声が、出なかった。


 驚きでも、恐怖でもない。


 ただ、

 自分が連れてきたものの正体を、

 ようやく理解してしまった。


 レオンは、立ち止まらない。


 魔法は続いている。

 手も動いている。


 限界は、来ない。


 来るのは――

 この場にいた人間の常識のほうだった。

 次に運び込まれたのは、担架ではなかった。


 二人がかりで抱えられ、

 布がすでに血で重くなっている。


「――心停止、寸前です!」


 誰かが叫ぶ。


 胸郭が上下していない。

 脈が、ない。


 周囲が一瞬、止まる。


 ここは本来、

 「諦める」か「後回し」にする症例だった。


 レオンは、立ち止まらない。


 視線を落とし、

 一秒で終わる診断を済ませる。


「心筋損傷。

 肺は虚脱。

 血液量が足りない」


 順番を、変えない。


 レオンは胸に手を置く。


 次の瞬間、

 治癒魔法が“心臓だけ”を包んだ。


 全体ではない。

 再生でもない。


 拍動を、強制的に再開させる魔法。


 心筋が、わずかに動く。


 それを確認するより早く、

 左手が動く。


 胸骨に器具を当て、

 迷いなく切開。


 血は出ない。


 治癒魔法が、

 出血する前の段階で止めている。


 周囲が息を呑む。


 「切っているのに、血が出ない」という

 理解不能な光景。


 レオンは心臓に触れない。


 触れる前に、

 魔法が“形”を維持している。


 裂けた部分が、

 崩れずに止まっている。


「ここ」


 一言。


 その瞬間、

 物理的な縫合と同時に、

 治癒魔法が“内部から”繋がる。


 外から治すのではない。

 内側から、形を完成させる。


 心臓が、動いた。


 一拍。

 二拍。


 弱い。

 だが、確かだ。


「呼吸、戻す」


 肺に向けて、

 別系統の治癒魔法。


 虚脱していた肺胞が、

 一斉に開く。


 空気が、入る。


 兵の胸が、大きく上下した。


「……はっ」


 声が漏れる。


 生き返った、という言葉では足りない。


 死にかけていた時間そのものが、

 なかったことにされた。


 周囲が、完全に止まっている。


 誰も声を出さない。

 誰も動かない。


 エルシアのペンが、

 紙から落ちた。


 拾えない。


 何を書けばいいのか、分からない。


 今のは、


 治療でも

 魔法でも

 医療でもない。


 判断の連続を、

 一つの動作に圧縮しただけだ。


 レオンは、もう次を見ている。


「次。

 同じ状態が、あと二人いますね」


 “あと二人”。


 その言い方で、

 周囲の常識が完全に壊れた。


 誰かが、震える声で言う。


「……真似、できますか」


 レオンは、顔を上げない。


「できません」


 即答だった。


 否定でも、驕りでもない。


「理解はできます。

 でも、同時にやる判断が違います」


 その意味が、

 誰にも分からない。


 分かる必要もなかった。


 次の患者が運び込まれる。


 レオンは、もう手を動かしている。


 魔法が走り、

 器具が動き、

 命が戻る。


 限界は、来ない。


 この場で崩れているのは、

 「医療とはこういうものだ」という

 全員の理解のほうだった。

 治療が一段落したころ、

 ようやく「制度の人間」が前に出てきた。


 服は汚れていない。

 靴も血を踏んでいない。


 書類を胸に抱え、

 慎重に距離を取って立つ。


「確認が必要です」


 声は丁寧だった。

 だが、場に合っていない。


「この治療行為は、正式な承認を——」


 最後まで言わせなかった。


 レオンは、手を止めない。


 今、目の前にいる患者の

 脈を確認しながら、言う。


「その書類」


 一拍。


「何人、助けましたか」


 制度側の人間が、言葉に詰まる。


「……それは、手続き上——」


 レオンは顔を上げない。


「私は、今ここで」


 糸を結び、

 魔法を解く。


「二十三人、返しました」


 静かな声だった。


 数字を誇らない。

 ただ、事実として置く。


「この中に、

 あなたの承認がなければ

 死んでいた人がいます」


 間。


「承認は、

 もう済んでいます」


 制度側が、何か言おうとして——

 何も出てこない。


 周囲の兵が、

 無言で治療された仲間を見る。


 歩いている。

 話している。

 生きている。


 レオンは続ける。


「書類が必要なら、後で書きます」


 一拍。


「今は、命が先です」


 それ以上、言わない。


 制度側は、一歩下がった。


 命令は出ない。

 確認もない。


 ただ、道が空いた。


 エルシアは、息を呑んだまま立っている。


 声が出ない。


 これは勝ち負けではない。

 論破でもない。


 世界の優先順位が、

 完全に書き換えられた瞬間だった。


 レオンは、もう次を見ている。


 戦場の中心で、

 判断だけが、淡々と続いていく。

 次に運ばれてきたのは、意識のない兵だった。


 呼吸は浅く、脈は弱い。

 胸部に外傷はないが、内側で何かが壊れている。


 レオンは、足を止めない。


 顔を見る。

 胸に手を置く。

 それだけで、判断は終わった。


 治癒魔法が展開される。

 広がらない。

 必要な場所にだけ、留まる。


 同時に、器具を取る。

 切る。

 止める。


 血は出ない。

 魔法が、先に働いている。


 呼吸が戻る。


 それを確認するより早く、次を見る。


 腹部の損傷。

 臓器の位置がずれている。


 完全には治さない。

 動かないようにする。


 位置だけを固定する魔法。

 そのまま、次。


 脚部の粉砕。

 骨の形を戻す。

 繋がない。


 繋がるのは、後でいい。


 治療は続いている。

 止まらない。


 誰も、質問しない。

 聞いても、間に合わない。


 エルシアは、書いていた。


 症例番号。

 処置。

 時刻。


 だが、途中で止まる。


 胸部の処置が終わる前に、

 腹部が安定し、

 その間に、脚の出血が止まっている。


 順番が、合わない。


 書き直そうとして、

 どこから直せばいいのか分からなくなる。


 判断が先にあり、

 手が動き、

 その途中で魔法が入り込む。


 どれが始まりで、

 どれが終わりか、

 分からない。


 追おうとした瞬間、

 次が終わっていた。


 これは――

 並べて使っているのではない。


 ひとつの動きだ。


 記録が、意味を失った。


 レオンは、顔を上げない。


「次をお願いします」


 それだけだった。

 治療は途切れなかった。


 担架が動き、

 声が抑えられ、

 誰も指示を求めなくなる。


 その中で、ひとりの兵が、ぽつりと呟いた。


「……英雄専門最高判断医だ」


 誰に向けた言葉でもない。

 確認でも、報告でもない。


 ただ、思い出したような声だった。


 エルシアは、その言葉で顔を上げる。


 目の前では、

 血が止まり、

 呼吸が戻り、

 次の処置が始まっている。


 名前と、今起きていることが、

 やっと繋がる。


 連れてきた人間の種類を、

 ここで初めて知った。


 記録は、もう取っていない。


 必要なことは、

 すでに紙の外で進んでいた。

 治療は続いている。


 血が止まり、

 呼吸が戻り、

 次の担架が来る。


 それを見ながら、エルシアは動けずにいた。


 自分は、ただ呼びに行っただけだ。

 判断が必要だと思った。

 現場では、どうにもならなかった。


 ――そう思っていた。


 だが、今起きていることは、

 前線の混乱でも、

 一時的な支援でもない。


 治療の速度が、戦況を変えている。

 生き残る人数が、想定を超えている。


 もしこれが続けば、

 前線の判断が変わる。

 補給が変わる。

 命令の出し方が変わる。


 **国家が、こちらを見始める。**


 その起点が、

 自分の一歩だった可能性に、

 今さら気づく。


 取り消せない。

 説明もできない。


 ここで起きていることは、

 もう現場の裁量では済まない。


 エルシアは、息を吐いた。


 軽くはならない。


 ただ、

 **自分が動かしたのは人ではなく、

 流れそのものだった**と、

 遅れて理解した。

 夜気が下り、焚かれた火が増えたころだった。


 治療の流れは止まっていない。

 止まる気配もない。


 その外縁に、ひとり立つ影がある。


 近づきすぎない。

 だが、離れすぎてもいない。


 ルネだった。


 視線は、負傷者ではなく、

 人の動きと、空いた場所を追っている。


 どこが詰まっているか。

 どこが足りていないか。


 中心を見る。


 レオンの手は止まっていない。

 魔法も、判断も、すでに並走している。


 ――今は、声をかける場面ではない。


 ルネは、何も言わずに動いた。


 水袋を取り替える。

 布を集める。

 治療が終わった兵を、次の場所へ誘導する。


 指示は出さない。

 確認もしない。


 必要なことだけを、先に済ませる。


 それで、流れが一段、軽くなる。


 レオンが、一度だけ視線を上げる。


 短い。


 だが、それで十分だった。


 ルネは、そこに留まった。


 助けに来たわけではない。

 連れ戻すつもりもない。


 **補佐できる位置が、ここにしかないと分かったからだ。**


 エルシアは、その様子を見ていた。


 言葉がいらない関係が、

 すでに出来上がっていることを知る。


 記録は、もう取っていない。


 この場で残るのは、

 判断と、それを支える動きだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る