第三十六話 立てる場所を変えればいい
王都医務棟の朝は、扉が開く音から始まった。
いつもの白衣、無言の入室。
レオンは物音を立てずに椅子を引き、ルネのベッド脇に座った。
すでに覚えた手順で触診が始まる。脈、皮膚温、筋の緊張。
問診はない。だが、すべて伝わる。
この人は、数値ではなく身体を見ている。
ルネは目を伏せながら、それでもレオンの手の動きから目を離せなかった。
その手に、昨日、自分の身体が“戻された”わけではなく――
“下ろされた”ことを思い出していた。
ルネの姿は、軍人には見えなかった。
痩せた足、治療痕の残る膝、機能しきらない指先。
それでも、この少女の顔には、諦めの影はなかった。
黒曜のように澄んだ瞳が、今はレオンの横顔を見ていた。
体勢を変えると、ショートカットの髪がふわりと揺れた。
戦場では男と見間違えられることもあったというが、
ベッドの白さの中で膝を抱えるように座る姿は、どう見ても**“可愛らしい少女”**だった。
膝上までのズボンの裾からは、細い足が覗いている。
制服ではない、支給された衣服でもない。
もともと着慣れていた半ズボン。
彼女の“戦場”の記憶と、“人間としての生”のあいだにある、微かな揺らぎだった。
そこへ、扉がまた開いた。
現れたのは、白衣を着た若い医官――王都中央医療局の研究課長補佐だという男だった。
背筋を伸ばし、計測器を携え、後ろには文官を二人従えていた。
「診察記録と補助装置の操作履歴、拝見しました。
判断医殿の経験は承知しておりますが……現在の神経補助装置の設定値、やや旧式では?」
一礼もない。
レオンはカルテを閉じ、言葉も発さずに立ち上がった。
「本患者の操作ログによれば、末端神経の閾値を――」
「その数値、どこで取得した」
レオンの声は静かだった。だが、空気が止まった。
医官は一瞬たじろいだが、平静を装って答える。
「記録班の報告です。最新の定義では神経再伝達の出力閾値は12.4ミリアーク。
貴殿の操作はそれを下回っており、再起の可能性を不当に棄却したとも受け取れます」
レオンは、ルネの足元に手を置いた。
指先で膝下をなぞる。
脛、足首、末梢の反応――一瞬で把握する。
「この足は、再起に値しないのではない」
レオンは静かに言った。
「戻せば、また壊れる。だから、俺は下ろした」
「……しかし、それは貴殿の個人的判断では?」
レオンは、椅子に座りなおしながら続けた。
「補助装置の設定値を設計したのは、かつて王都で“判断医”と呼ばれた人物だ。
その時代の基準が古いというなら、いまこの部屋で塗り替える」
医官の顔色が変わる。
「……まさか、設計者が……」
「判断医が誰だったか、記録は残っているだろう。
俺が去ったあと、それを扱えた者はいなかった。それだけだ」
一瞬、沈黙。
誰も言葉を返さなかった。
レオンは目を閉じたまま、静かに告げる。
「触れもせずに患者を語るな。
装置の数字をなぞるだけでは、命は守れない」
医官は唇を噛みしめ、頭を下げた。
「……失礼しました」
それだけ言い残し、部屋を出ていく。
文官もまた無言で後に続いた。
扉が閉まると、空気が戻る。
そして、レオンはルネのほうを見た。
「立てるか?」
ルネは驚いたようにレオンを見上げた。
「……え?」
「器具なしで立てるか、訊いてる」
「あ……やってみます」
ベッドの脇に足を下ろし、そっと立ち上がる。
足取りは不安定。
でも、踏みしめた感覚が確かにある。
「……立てました」
ルネは言いながら、自分の声が震えているのを自覚した。
「そうか」
レオンは、それだけ言って窓の方を見た。
そして、唐突に言った。
「うちで、働かないか」
ルネの思考が一瞬止まる。
「……え?」
「診療所だ。お前の身体も、心も、すぐには戻らない。
だが、命を見てきた経験はある。それは診療所にとって十分な価値だ」
「……私に、何か……できるんでしょうか」
レオンは答えない。
それが、この人の癖だと分かってきた。
「誰かのために動くこと。そういう力はもうある」
「でも、私……戦えないんです」
「戦わなくていい。守るだけだ」
ルネは黙っていた。
その視線が、またレオンに戻る。
ずっと、見ていた。
無言で制度を制圧した姿。
自分に触れて、痛みも、温度も、気づかせてくれた手。
「……私で、いいなら」
「いいかどうかは、お前が決めろ」
レオンがそう言って背を向ける。
その後ろ姿を、ルネは見送っていた。
小柄な自分の身体には、大きすぎる未来の話だった。
でも、不思議と、怖くはなかった。
小さな手が、膝の上で握られる。
少女のような外見の中に、まだ残る少年めいた動作。
そのどちらでもない、自分として。
レオンの後ろ姿を見つめながら、心の奥で、ルネは確かに――
「この人の隣に、いたい」
そう、思っていた。
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