第三十五話 抱擁

レオンは扉の前で一度立ち止まった。


夜はとうに明けていたが、この廊下だけはまだ薄暗かった。

病棟の朝は始まっているはずなのに、ここだけが夜の匂いを残していた。


扉に手をかける。

冷たくはない。だが、ほんの一瞬だけ、指が止まった。

迷いではない。ただ、心が遅れた。


開いた扉の先には、ルネがいた。


 


毛布の下に静かに横たわっている。

目は閉じていたが、意識はあった。

その呼吸が、わずかに緊張していることを、レオンはすぐに見抜いた。


言葉をかけず、静かに歩み寄る。

足音は落とし、椅子を引いて座る。

そのまま手を伸ばし、脈を診た。

皮膚温。筋肉の反射。呼吸の深さ。瞳孔の応答――


数値は見ない。身体だけを視る。


いつものように、触診だけで確かめていく。

だが、そこでふと、わずかに違和を覚えた。


 


温かいのだ。

生きている当たり前のぬくもりが、これほど重たく感じたことは久しい。


彼は、戻ってきた。

だが、それは「戦場に戻すための回復」ではなかった。

装置を使い、魔力を抑え、ただ「生きる場所」まで引き下ろした。

「戦わずに済む身体」を、レオンは初めて作ったのだ。


 


「……先生」


低い声が呼ぶ。

ルネのまぶたが、ゆっくりと開いた。


レオンは返事をしなかった。

ただ、手を離すのが少しだけ遅れた。


 


「これで、戦わなくて……いいんですね」


それは、問う言葉ではなかった。

確認でもなかった。


ただ、許されたことを実感した声だった。


レオンの手が止まる。

思考が、過去に引き戻された。


 


「ありがとう、先生! また戦える!」


「もう痛くない。さすがです!」


「先生がつけてくれたおかげで、腕が戻った!」


そう言って笑った者たちの、その数日後の姿が、今も脳裏に焼きついていた。


崩れた神経。

剥がれた魔力の制御層。

指の先から壊れていった関節。

皮膚の下で死んでいく組織――


どれも、正しい判断の結果だった。


だが、それが「命を戻した」と言えるのか。

それを考えることさえ、いつしかやめていた。


 


レオンは、無意識に動いた。

言葉ではなく、判断でもなく。


ただ、身体が、動いた。


 


彼は、そっとルネを抱き寄せた。


力を込めたわけではない。

けれど、静かに、確かに、その身体を両腕に包んだ。


 


ルネは少しだけ驚いたように呼吸を止めたが、逃れなかった。

硬直も、抵抗もなかった。


レオンの白衣の下にある腕が、小さく震えていた。

それは、かつて壊してしまった誰かの名前を呼ばない代わりの震えだった。


 


「……ありがとう、先生」


 


ルネの声は、すでに泣いていた。

涙は流れていない。

だが、声の底が震えていた。


 


レオンは答えなかった。

ただ、静かに、深く一度呼吸をしてから、そっと腕をほどいた。


そして、目を伏せて言う。


 


「きみは……戻らなくていい」


 


ただ、それだけ。


その言葉に、ルネは、はっきりと目を閉じた。

そして、ゆっくりと頷いた。

まるで、今ようやく「息をしていい」と許されたかのように。


 


沈黙が流れた。


だが、その沈黙は苦しくなかった。

生きて戻った人間と、それを壊さずに済ませた医師のあいだにある、初めての沈黙だった。


 


やがて、控えめなノックの音が扉の向こうに落ちた。


レオンが視線を向けずに答える。


「診察中だ」


 


それでも扉は開いた。


控えめな所作で現れたのは、王都直属の文官だった。

姿勢は低い。声も抑えられている。

だが、その一歩の重さがすべてを語っていた。


 


「失礼を承知で……判断医殿。少しだけ、お時間を」


レオンは応じなかった。


文官は胸元から封筒を取り出す。

白地に、赤い王都の紋が押された蝋が残っていた。


 


「制度は、あなたをまだ“判断医”と記録しています。

 国は……あなたの帰還を、事実として受け止め始めています」


 


レオンは黙っていた。


ルネのカルテを見つめていた。


 


「医務棟ではすでに、判断の停止が二件。

 あなたの手を、再び――」


 


そのとき、レオンは立ち上がった。


文官が言葉を止める。


レオンは視線を上げず、カルテを静かに閉じた。

ルネに向けて、ただひとことだけ。


 


「……無理はするな。痛みが出たらすぐ言え」


 


それだけを告げて、歩き出した。


文官は封書を差し出すが、レオンは受け取らなかった。

一度も目を合わせず、廊下へ出る。


 


「判断医殿……!」


 


背後から呼ばれても、レオンは答えない。

声の代わりに、白衣の裾が廊下の空気を裂いた。


 


角を曲がったところで、兵が立っていた。

敬礼の姿勢。だが、何も言わない。


レオンはその横を、ただ静かに通りすぎる。


病棟の窓から、ようやく朝の光が差し始めていた。


 


その光に照らされながら、文官が呟いた。


 


「……制度は、生きていたのですね。止まっていなかった」


 


彼が見つめていたのは、レオンではなかった。

その背に積まれた、過去の患者たちと、今この瞬間だけ医師であった男の姿だった。


 


扉の奥で、ルネが再び目を閉じる。

静かに、深く、今度は苦しみのない息を吐いた。


それは、戦場で吐いたどんな呼吸よりも――

確かに、生きている音だった。

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