第三十四話 英雄医の帰還
王都の城門が開いた瞬間、馬車の外がざわめいた。
石畳に、足音が増えていく。
待っていた音だった。
扉が開くより先に、列ができている。
文官。医師。兵士。記録官。
誰もが、馬車を見ていた。
扉が開き、最初に降りたのはレオンだった。
旅装のまま。装飾もない。
それでも、目が揃って、息が揃う。
「……お帰りなさいませ」
先頭の文官が頭を下げた。
声は低い。
「英雄専門最高判断医殿」
呼び名が、空気を変える。
続けて、別の声が重なった。
「判断医がお戻りになるとは……」
「英雄医だ」
誰かが、呟くように言った。
それは賛辞ではなく、確認に近い。
レオンは応えない。
馬車の中を見た。
「担架を」
短い指示だった。
医務兵が即座に動く。
少女が、慎重に運び出される。
ルネは眠っている。
呼吸は安定しているが、意識はない。
馬車に乗っている間は、確かに意識があった。
弱い声でも、呼びかけには返していた。
それが今は、静かだ。
「鎮静は」
レオンが尋ねた。
医務棟の医師が答える。
「維持しています。神経保護のためです」
レオンはうなずいた。
「この装置では、起きていられない」
それだけ言って、歩き出す。
王都医務棟へ。
かつて自分が日常のように出入りしていた場所。
廊下の幅も、天井の高さも変わらない。
変わらないことが、少しだけ薄気味悪い。
扉の前に立つ。
内側から、低い振動音が漏れていた。
間断のない、機構の呼吸。
「準備は整っています」
文官が言う。
「王都式神経補助装置を稼働させております。あなたの到着を待っていました」
待っていた、という言い方が、そのまま現状を示していた。
レオンは返事をしない。
扉が開く。
治療室の中央に据えられた装置は、人ひとりを覆うほどの大きさがあった。
石の台座。
金属の枠。
魔術回路が幾重にも絡み、中心には淡く脈打つ核がある。
派手ではない。
だが、近づくほどに、危うさが分かる。
「王都式神経補助装置です」
医務棟の責任者が説明した。
言葉は滑らかだが、どこか慎重だった。
「損傷した神経そのものを修復するものではありません」
レオンは核から視線を外さない。
「途切れた伝達を、外部から補助します。装置が、身体の代わりをします」
「つまり」
レオンが続ける。
「装置が働いている間だけ、動ける」
責任者はうなずいた。
「……はい。使用中は、歩行、運動、戦闘――」
「できるだけだ」
レオンが遮った。
「治ったわけじゃない」
責任者は言い返せない。
「出力が強すぎれば、残っている線まで削れる」
「弱すぎれば、意味がない」
「判断が要る」
それは装置の説明であり、制度の説明でもあった。
レオンが去ってから、この装置は“あるだけ”になったのだ。
ルネが治療台へ移される。
細い肩。
汗の跡。
眠っていても、身体が緊張しているのが分かる。
「鎮静は維持」
レオンが言った。
「ここから先は、眠っていた方がいい。起きていれば壊れる」
誰も異を唱えない。
レオンは、治療を始める前からルネに触れていた。
手首。
脈を取る。
速い。
だが、乱れてはいない。
「……まだ、踏ん張っている」
誰に聞かせるでもない独り言。
次に、足首。
指先で、筋の張りを確かめる。
皮膚の温度。
左右差。
「下肢伝達、完全断裂じゃない」
記録官が慌てて筆を走らせる。
「……確認します」
「しなくていい」
即答だった。
「今、触っている」
レオンは制御盤に視線を向けない。
片手は、常にルネの身体に置いたまま。
もう一方の手だけで、装置の核に触れる。
魔力が流れ込む。
装置が反応するより早く、ルネの呼吸が一段、深くなる。
「出力、まだ上げていませんが……」
医師の一人が言った。
「上げる必要がない」
レオンは、ルネの膝に手を移す。
わずかな痙攣。
それを、指先で止める。
「ここで出力を上げると、残っている線まで削れる」
誰も、反論できなかった。
装置の回路が、微かに軋む。
「……同調率、異常値です」
記録官の声が震える。
「異常じゃない」
レオンは言った。
「人に合わせているだけだ」
装置が一瞬、暴れかける。
魔術回路の光が乱れる。
「――停止を!」
声が上がる。
だが、レオンは止めない。
ルネの肩に掌を当てる。
体温。
震え。
魔力を、さらに細く絞る。
押さえ込むのではなく、通り道を作る。
装置の暴走が、嘘のように収まる。
「……制御、回復」
誰かの声が、震えていた。
レオンは、すでに次を見ている。
腹部。
呼吸筋。
「ここが浅い」
装置の設定を変える前に、レオンの魔力が先に補助に入る。
数値が、遅れて追いつく。
「……一致、しています」
記録官が驚いた声で言う。
レオンは答えない。
すでに、次の工程に入っている。
この治療室にいる全員が、理解し始めていた。
この治療は、もう“観るしかない”領域に入っている。
装置の音が一定になる。
回路の光が落ち着く。
その間も、レオンの指は離れない。
皮膚の色。
汗の出方。
筋の緊張。
脈の揺れ。
全部を触って確かめながら、装置を従わせていく。
「神経は戻っていない」
レオンが淡々と言う。
「ただ、流れはつながる」
その言葉の直後、ルネの指先が、わずかに動いた。
レオンの指が即座に追う。
「……反応、確認」
誰かが言うより早く、レオンは次の判断へ入っている。
「起こすな」
短い声。
「ここで意識を戻せば、壊れる」
装置の出力を、限界まで落とす。
それでも、神経補助は止まらない。
装置が支えているのではない。
レオンが、直接、流れを維持している。
魔力は強くない。
だが、切れない。
乱れない。
長い時間、同じ精度のまま流れ続ける。
「……信じられない」
誰かが、呟いた。
それでも、誰も口を挟まない。
やがて、呼吸が完全に安定する。
脈が落ち着く。
「……っ」
ルネの瞼が、震えた。
レオンは最後まで手を離さない。
目が、開く。
焦点の合わない視線が天井を彷徨い、数秒遅れてレオンを捉える。
「……せん、せい……?」
声は弱い。
だが、はっきりと意識が戻っている。
レオンはまだ触れている。
「大丈夫だ」
低く、確かな声。
「戻したわけじゃない」
一拍。
「戦わなくていいところまで、下ろした」
ルネの指が、弱々しくレオンの袖を掴む。
力は弱い。
だが、確かに掴んでいる。
その感触を確認してから、レオンはようやく手を離した。
ルネの唇が動く。
「……よかった……」
息が混じる。
それから、恐る恐る、言う。
「戦わなくて……いいんですね」
治療室の空気が変わった。
さっきまでの沈黙とは違う。
誰も、そこに言葉を重ねられない沈黙。
レオンは答えない。
装置を停止させる。
核の光が、静かに消える。
回路が沈黙する。
「今日は、眠れ」
それだけ言った。
ルネの瞼が閉じる。
安定した、深い呼吸。
「……成功、ですね」
誰かがようやく言った。
レオンは手袋を外しながら答える。
「治療は終わった」
一拍。
「判断は、これからだ」
誰も、異を唱えなかった。
治療室の外へ出る。
廊下には、さらに人がいた。
様子を聞きつけたのだろう。
だが、誰も質問できない。
レオンがここにいるという事実が、質問より先に答えになってしまっている。
文官が追いついてくる。
「英雄専門最高判断医殿。今後の――」
レオンは歩きながら言った。
「私は今、医師だ」
文官が言葉を飲み込む。
「患者は戦場の道具じゃない」
それだけ。
思想の説明ではない。
治療の結果として落ちた言葉だった。
医務棟の高い窓から、王都の空が見える。
遠い。
広い。
この街は、変わっていない。
変わっていないからこそ、空席の怖さが残っている。
判断医は、一人職。
代替はない。
責任を分散させない制度。
だから、レオンが去った瞬間に、王都から判断医は消えた。
治療はできる。
応急処置もできる。
だが、戻すか戻さないかの最終判断だけが出せない。
英雄は保留される。
前線は膠着する。
誰も責任を取れない。
制度は回っているようで、止まっている。
レオンはその説明をしない。
ただ、足を止めずに歩く。
医務棟の外に出る。
石畳が冷たい。
空気が硬い。
そして、背中に視線が刺さる。
この国は今も、役割を欲しがっている。
それを、誰かに背負わせたいままなのだ。
レオンは振り返らない。
ルネは眠っている。
治療は終わった。
判断は、これからだ。
王都に、英雄医が戻った。
その事実だけが、重く残った。
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