第二十九話 選び直した人間の背中

戸を叩く音は、強くはなかった。

だが、遠慮もなかった。


レオンは手を止めずに言う。


「どうぞ」


扉が開き、男が立っていた。


外套は古い。繕いの痕がある。

しかし襟は整っている。

泥を払う動作が慣れていて、旅人の荒さがない。


レオンがこの村に診療所を構えてから、

一番最初に「英雄としてではなく」戸を叩いた男だった。

剣を置き、名も告げず、

ただ「診てほしい」とだけ言って。


リナは器具台の脇で、布を畳む手を止めた。


男は室内を一度だけ見回す。

棚。器具。湯。床の動線。

視線が止まる場所が少ないのは、よく知っている場所だという確認に近い。


「まだ、ここにいるか」


男の声は低い。


「診療所は、ここです」


レオンが言う。


男は鼻で笑うでもなく、黙って頷き、椅子に腰を下ろした。

背筋は伸びている。

戦場の癖が、そのまま残っている。


「痛みは」


「ない」


「違和感は」


「ない」


レオンは男の手元を見る。

傷はない。包帯も要らない。

男がここに来た理由が、治療ではないことは、最初から分かる。


「……子どもがな」


男が言った。


リナは視線を上げる。


「子ども?」


「この村の子どもじゃない。隣の集落だ」


男は言葉を選ばず続けた。


「俺のところに来る。昼になると、勝手に集まる」


レオンは返事をしない。

器具を拭き、棚の位置を整える。

いつも通りの動作が、会話の余計な熱を奪う。


「道場を始めた」


男はそこで、ようやく要点だけを置いた。


リナの指先が、布を強く掴む。


「……道場」


男は淡々と言う。


「立派なもんじゃない。空き小屋だ」


「床を直して、雨漏りを塞いで、縄を張っただけ」


「剣を振りたいって言う子がいてな」


言い訳みたいに、すぐ続ける。


「戦わせてはいない。木刀だ」


「礼から教える。歩き方も」


レオンはそれでも何も言わない。

驚かない。褒めない。肯定しない。


男は、そこで一度黙った。

黙ってしまうのは、誰かの反応を待っているからではない。

言葉にするほどのことではないと、自分で分かっている顔だった。


リナが小さく息を吸う。


「……どうして」


口に出した瞬間、自分で気づく。

それは「すごいですね」と同じ種類の言葉だ。

軽い。薄い。

でも、いまリナはそれしか出せなかった。


男はリナを見る。

測る目ではない。

役割を見る目でもない。


「決めたからだ」


それだけで終わると思ったのか、男は視線を戻す。


「英雄をやめた」


さらりと言う。

それが、もはや特別な言葉ではないみたいに。


「称号も返した。呼ばれても行かない」


「戦場には戻らない」


言い切る。


リナの胸に、別の疑問が浮かぶ。


――じゃあ、どうやって生きる。


男はそれを先回りするように言った。


「最初は、何もしなかった」


「どこにいても、何をしても、落ち着かなかった」


「剣を持たない手が、空いてるのが気持ち悪かった」


リナは黙って聞く。

自分の中に同じ感覚があるから、黙るしかない。


「それで、始めた」


男は言う。


「始めたら、続いた」


自慢ではない。

ただ、生活の報告だ。


「子どもは勝手に来る。勝手に帰る」


「明日も来る」


「だから、明日も床を掃く」


男はそこで初めて、少しだけ笑った。


「楽しい、って言葉は分からない」


「戦ってた頃に使い切った気がする」


「でも」


言葉を置く間があってから、


「帰る場所がある」


とだけ言う。


レオンは、その言葉に反応しない。

反応しないことで、言葉を軽くしない。


リナは、男の言う「帰る場所」という言葉を、自分の中で転がす。

帰る場所。

剣ではない場所。

役目ではない場所。


男が続ける。


「今日は、ここまで、って言える」


「明日も同じ時間に、同じことをする予定がある」


「それだけで、十分だった」


十分。

その言葉の硬さが、リナには分かる。

十分という言い方は、本当は足りていないものを知っている人間の言い方だ。

でも、足りないまま生きることを許した人間の言い方でもある。


男はふと、診療所の器具台を見る。

布の畳み方。

湯の量。

刃物の向き。


「変わらないな」


「必要なものは変わりません」


レオンが言う。


男は頷く。


「……あんたは、変わらない」


それは評価ではない。

確認だった。


「俺は、変わった」


男は自分の手を見る。


「剣を捨てたわけじゃない。置いてある」


「でも、取りに行かない」


リナが、思わず聞いた。


「……戻りたくならないんですか」


男はすぐには答えない。

返事を探すのではなく、言葉を選んでいる間だった。


「戻るってのは」


男はゆっくり言う。


「剣を持つことじゃない」


リナの胸が一瞬だけ熱くなる。


「戻るってのは、あの場所の言葉で生きることだ」


「俺はもう、その言葉を使わない」


それだけで、十分だった。


レオンは男を見る。


「役割は」


男が視線を上げる。


「自分で決めていい」


レオンは静かに言う。

押しつけの響きがない。


男は、短く息を吐いた。


「……ああ」


「だから、来た」


男はそこで初めて、今日の用件を口にした。


「ここに来て、確認したかった」


「俺は……いまのままでいいのか」


レオンは肯定しない。否定もしない。


「困っていませんか」


「困ってる」


即答だった。


「毎日困ってる」


男は笑わない。

困っているのに笑わない顔は、生活が嘘じゃない証拠だ。


「でも」


男は続ける。


「困ってるまま、やる」


「やれば、明日が来る」


レオンはそれ以上、言葉を足さない。


男は立ち上がる。


「礼を言いに来たわけじゃない」


「言われると、気持ち悪いからな」


レオンは頷く。


「必要ありません」


男は扉の前で一度だけ立ち止まる。

振り返らずに言う。


「……最初に来たとき、俺は何も持ってなかった」


「剣も、名も、理由も」


「いまは」


少し間があって、


「床と、掃くほうきがある」


と言った。


それだけで、十分だった。


男が去る。


扉が閉まる音が小さいのに、診療所の中に空洞が残る。

空洞は不快ではない。

何かが入る余地だった。


リナは布を握ったまま、しばらく動けない。


レオンが棚を整える音だけが続く。


「……先生」


リナの声はかすれていなかった。

ただ、まだ形にならない。


レオンは見ない。


「何ですか」


「英雄をやめても……」


リナはそこで言葉を止める。


「終わりじゃありません」


レオンは言った。


説明ではない。

慰めでもない。


「やめたあとを、どう生きるかは」


一拍置いて、


「本人が決めます」


リナは息を吸う。

吐く。


「……役割は」


自分の口から、その言葉が出ることに驚く。


レオンは短く答える。


「自分で決めていい」


それだけだった。


その日、患者が来た。


子どもが転んだ。

膝に砂が入っている。


リナは動いた。

レオンより先に湯を用意し、布を渡す。

手が勝手に動く。

考えが追いつかない。


レオンは何も言わない。

渡された布を使う。

それで終わる。


次に、老人が腰を押さえて入ってくる。

顔に疲れがある。


リナは椅子を引き、座らせる。

水を出す。

声をかけるべきか迷って、やめる。

声をかける代わりに、足元に落ちた杖の位置を直す。


老人はそれを見て、何も言わずに頷いた。


昼を過ぎたころ、村の男が戸口で足を止めた。

リナを見て、ほんの一瞬だけ戸惑う視線を置く。


村にはいない種類の美しさが、そこにいる。


銀髪は濡れた絹のように細く、光ではなく、白さとして目に残る。

黒い瞳は、深い井戸の底みたいに暗く、見返された瞬間に目が逸れる。

背丈は小さい。肩は華奢で、セミロングの髪が首筋に沿って揺れる。

服は派手ではないのに、立っているだけで空気の密度が変わる。

可愛さが先に来て、それから遅れて、美しさが追いかけてくる。


男は一度だけ「え」と言いかけて、口を閉じた。


リナは気づいている。

見られることには慣れていない。

だが、見られる理由が剣ではないことを、今日ははっきり理解できた。


「先生はいますか」


男が言う。


レオンが顔を上げる。


「どうしましたか」


診療が続く。

いつも通りの順番。

いつも通りの手。


だが、リナの中では、順番が変わっていた。

「ここにいる理由」を言葉にした日から、理由は重くなった。

重くなったぶん、逃げたくなる瞬間がある。

剣を持てば軽くなる気がする瞬間がある。

それでも、今日の手は止まらなかった。


夕方、診療所の片づけが始まる。


リナは言わない。

「やります」とも。

「働きます」とも。


ただ、先に動く。


湯を替える。

布を煮る。

床を拭く。

汚れた桶を洗う。

その匂いに眉をひそめても、手を引かない。


英雄だった頃なら、絶対にしなかった動きだ。


レオンは見ない。

見ないことで、彼女を試さない。


最後の灯りを落とす前に、リナは一度だけ立ち止まった。


窓の外は暗い。

村の灯りが点々とある。


「……先生」


レオンは鍵を確かめながら答える。


「はい」


リナは言葉を探して、結局、短くする。


「明日も、来ます」


宣言ではない。

誓いでもない。


生活の予定だ。


レオンは頷く。


「扉は、いつも同じ時間に開けます」


それだけだった。


二人は外に出る。

道を歩く。

距離は近くも遠くもない。


帰り道の途中、リナは小さく言った。


「道場……いいですね」


レオンは返事をしない。

返事をしないが、歩く速さを変えない。

それが、受け取ったという合図だった。


夜。


リナは眠りにつく前、剣のことを考えた。

取りに行けば、手は軽くなる。

剣を持てば、理由は簡単になる。


でも、男の言葉が残っている。


――床と、掃くほうきがある。


リナは目を閉じた。

剣を取らない理由を、言葉にしない。

言葉にしないまま、明日の布のことを考える。


翌朝。

リナは早く起きた。


馬車は使わない。

剣も取らない。


自分の足で、診療所へ向かう。


扉の前で一度だけ立ち止まって、息を整える。

そして、ノックをする前に、もう一度だけ思う。


――役割は、自分で決めていい。


扉を叩く音は、強くない。

だが、遠慮もない。


その日の診療所は、少しだけ早く始まった。

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