第三十話 条件付き
朝の診療所は、静かだった。
ミアが扉を開けたとき、外に一人、女の子が立っていた。背は高くない。外套も荷もなく、腰に小さな袋を提げている。旅人というほどではないが、村の者とも違う立ち方だった。
「……診てもらえますか」
声は落ち着いている。怯えも、強がりもない。
「どうぞ」
ミアが言うと、女の子は一度だけうなずいて中に入った。
レオンは机の前にいた。顔を上げ、短く言う。
「症状を」
「倒れます」
即答だった。
「いつから」
「半月ほど前から。最初は夜だけでした」
椅子に腰を下ろすとき、動きが一拍遅れる。ミアはそれに気づき、視線を落とす。
「仕事は」
「しています」
「内容は」
「伝令です」
レオンの手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「距離は」
「短いです。村と、隣の集落くらい」
「頻度は」
「一日に、何度か」
ミアは包帯を用意しながら、会話を聞いていた。伝令。その言葉に、どこか引っかかるものを覚える。
「名前を」
「ルネです」
名乗り方に迷いはなかった。
レオンは脈を取り、瞳孔を確かめ、額に触れる。熱はない。外傷もない。呼吸は整っている。
「意識を失う前、何が起きますか」
「音が遠くなります」
「痛みは」
「ありません」
「恐怖は」
ルネは少し考えてから答えた。
「……慣れています」
その一言で、ミアの手が止まる。
レオンは耳を近づけ、呼吸を確かめる。しばらくして、体を離した。
「原因は、はっきりしています」
ルネはうなずいた。
「戻れますか」
聞き方は静かだった。縋りも、期待も、前に出ていない。
「戻れます」
レオンは、はっきりと言った。
ミアが思わず顔を上げる。
「症状は制御できます。今のところ、致命的な異常はありません」
ルネの肩から、わずかに力が抜ける。
「ただし」
レオンは続ける。
「今と同じ頻度で続けるなら、いずれ確実に倒れます」
「……倒れます、か」
「ええ」
「休めば」
「改善します」
「完全に?」
「完全には戻りません。ですが、生活はできます」
レオンは一拍置いた。
「伝令としては、続けられます」
ミアは息を詰める。
「条件付きで、です」
ルネは黙って聞いている。
「頻度を下げてください」
「判断を伴う任務は外してください」
「それが条件です」
しばらく沈黙が落ちる。
ルネは目を伏せ、やがて短く息を吐いた。
「……戻れるなら、それでいいです」
迷いはなかった。
否定も、抗議もない。
ミアは胸の奥が冷えるのを感じた。戻れる。けれど、同じではない。その線が、はっきりと引かれた瞬間だった。
「今日はこれで終わりです」
レオンは言い、帳面に短く書き込む。
ルネは立ち上がり、一礼もせずに言った。
「ありがとうございました」
扉が閉まる。
外の足音が遠ざかる。
診療所に静けさが戻った。
ミアは、しばらく動けなかった。
戻れる。
でも、戻されない。
その違いが、胸に残る。
レオンはいつも通り、次の準備をする。
何かを成したという顔はしていない。
ただ、判断しただけだった。
ルネが診療所を出ていったあと、ミアはしばらく立ち尽くしていた。
扉が閉まる音は小さかった。いつもと同じ音だったはずなのに、今日は妙に耳に残る。
「……先生」
呼びかけてから、ミアは自分が何を言いたいのか分からなくなった。質問でも、確認でもない。ただ、言葉を置かずにはいられなかった。
「はい」
レオンは帳面を閉じ、棚に戻す。いつもの動きだ。急ぎも、ためらいもない。
「戻れる、って」
ミアは続けた。
「言いましたよね」
「言いました」
「でも……」
言葉が途切れる。
戻れる。
続けられる。
ただし、同じではない。
その差を、どう言葉にしていいのか分からなかった。
「条件がありました」
レオンは静かに言う。
「はい」
「それだけです」
それ以上の説明はなかった。
ミアは視線を落とす。床に伸びる光が、さっきよりも角度を変えている。時間だけが、確実に進んでいた。
「ルネさん……」
名前を口にしてから、ミアは気づく。診療所では、患者の名前を必要以上に呼ばない。それでも、今日は口から出た。
「伝令、ですよね」
「そう言っていました」
「短い距離だって」
「ええ」
ミアは唇を噛む。
「それでも、倒れるんですよね」
「倒れます」
「……いつか」
「続ければ」
ミアはその答えを、胸の中で反芻した。
続ければ。
止めなければ、ではない。
続けること自体が、条件だった。
レオンは机の上を拭き、道具を整える。次の患者が来る気配はない。
「先生は」
ミアは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「戻れるなら、戻してあげるって言わないんですね」
レオンの手が止まる。
ほんの一瞬だったが、ミアにははっきり分かった。
「戻す、という判断はしていません」
「でも、戻れるって」
「可能性の話です」
レオンは顔を上げ、ミアを見る。
「医師は、可能性を示します」
「……それだけ?」
「それだけです」
ミアは息を吸い、吐く。
納得はできない。
でも、否定もできなかった。
「ルネさんは」
ミアは言う。
「すごく、慣れてる感じがしました」
「ええ」
「倒れるって言っても」
「ええ」
レオンはそれ以上言わない。
ミアは、診療台の端に手を置く。さっきまで、そこにルネが座っていた。
「慣れてるって……」
それは、どんな日々だったのか。
走って。
伝えて。
間に合って。
また走って。
想像は、どこか現実感がない。それでも、胸の奥がざわついた。
「先生」
「はい」
「もし、条件を守らなかったら」
レオンは即答した。
「倒れます」
「……助けられますか」
「分かりません」
ミアは目を見開く。
「分からない、って」
「倒れる場所と状況次第です」
「でも」
「それ以上は、診療の外です」
線が、ここにあった。
ミアは何も言えなくなる。
しばらくして、外で足音がする。だが、扉は叩かれない。通り過ぎるだけだ。
診療所は、世界から切り離されたままだった。
レオンは帳面を開き、短く書き込む。名前。症状。条件。必要最低限の記録。
「先生」
「はい」
「……あの人」
ミアは、最後まで言えなかった。
あの人は、この先、どうなるのか。
レオンはペンを置く。
「生きます」
それだけだった。
ミアは、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。同時に、何かを失った気もした。
生きる。
でも、同じではない。
その重さが、診療所に残る。
レオンは立ち上がり、窓を開ける。風が入る。外は、いつも通りの村だ。
「次の患者が来るまで、少し休みましょう」
「……はい」
ミアは答え、布を畳み直す。手を動かしていないと、考えてしまう。
ルネの背中。
迷いのない声。
条件を受け入れた沈黙。
英雄だなんて、誰も言っていない。
ただの伝令だと、皆が思っている。
それでも、ミアの中では、何かが引っかかったままだった。
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