第二十八話 灯りの中
湯が、少し早く沸いた。
火を弱めると、鍋の音が落ち着く。
その変化を聞き分けるのは、いつからだったか。
診療所の朝は、言葉より先に音で始まる。
リナは包帯を切っていた。
長さを測り、端を揃え、重ねる。
癖で、もう一度だけ角を合わせ直す。
その必要がないことは分かっている。
だが、手がそうした。
器具台の上は整っている。
昨日のまま。
それを「昨日のまま」と感じられることが、少しだけ不思議だった。
レオンは水を替え、布を整える。
視線を送らない。
声も出さない。
だが、動線だけは確実に空いている。
人が一人増えた診療所の動きに、もう無理がない。
最初の患者は、いつもの男だった。
戸口で足を止め、室内を一巡する。
そして、リナを見る。
銀の髪はまとめられ、首筋が見えている。
黒い目は伏せられているが、濁りがない。
背丈は低い。
だが、姿勢が崩れていない。
村で見てきたどの娘とも違う。
可愛らしさが先に来て、
遅れて、説明のつかない美しさが追いつく。
男は一瞬、言葉を失う。
英雄の噂とは、まるで結びつかない。
剣を振る姿とも、戦場の話とも。
ただ、ここに立っている人間として、
見たことのない種類の存在だった。
男は咳払いをして、視線を外す。
「先生」
「どうしましたか」
「腰だ。昨日よりはいいが……」
診察が始まる。
リナは言われる前に布を渡す。
湯の温度を確かめ、器具を並べる。
手が止まらない。
レオンは何も言わない。
沈黙が、確認でも試しでもなく、
ただの作業の一部になっている。
処置が終わる。
男は腰を回し、短く息を吐く。
「……軽い」
帰り際、もう一度だけリナを見る。
今度は戸惑いではない。
「ありがとう」
それだけ言って出ていく。
誰に向けた言葉か、分からない。
だが、リナの胸の奥が、少しだけ温かくなる。
午前中は、穏やかだった。
子どもが来て、転んだ話をして、
泣かずに帰る。
老人が来て、
「今日は忘れてない」と薬を見せる。
誰も英雄の話をしない。
誰も剣を探さない。
その沈黙が、静かに続く。
昼前、患者が途切れた時間に、
リナは湯を足しながら、窓の外を見る。
雲は薄い。
風は弱い。
ここにいると、
天気の変化が、生活の一部になる。
戦場では、空は兆候だった。
ここでは、背景だ。
役に立っている感覚は、確かにある。
だが、それを確かめる必要がない。
昼過ぎ、布を干す。
水を絞るとき、
指に力を入れすぎていないことに気づく。
急ぐ理由がない。
その事実が、少しだけ嬉しい。
レオンは棚を整理し、
使わなかった器具を元に戻す。
二人の間で、言葉はほとんど交わされない。
だが、動きが噛み合っている。
午後、若い女が来る。
「……ここ、いいですか」
遠慮がちに言う声。
リナは一瞬だけ顔を上げ、
小さく頷く。
その仕草に、説明はない。
だが、拒まれていないことが分かる。
女は安心した顔で座る。
処置が終わると、女は立ち上がり、
一度だけ深く頭を下げる。
「助かりました」
リナは同じように頭を下げ返す。
その動作が、自然だった。
夕方、最後の患者が帰る。
診療所は静かになる。
レオンが火を落とし、
扉を少しだけ開けたままにする。
村の匂いが入る。
煮炊きの匂い。
土と草の匂い。
リナは干した布を取り込みながら言う。
「明日は、包帯を多めに切っておきますね」
宣言ではない。
決意でもない。
ただ、
明日が続くことを疑っていない声。
レオンは手を止めずに答える。
「頼む」
それだけ。
評価はない。
だが、拒まれない。
それで十分だった。
帰り道、空は暗い。
星が一つ、早く出ている。
二人は並ばない。
半歩の差は、そのままだ。
だが、その差に、もう意味を探さなくていい。
家の前で、レオンが言う。
「今日は、終わった」
「はい」
その一言で、
一日がきちんと閉じる。
診療所の灯りが消える。
――――
その夜、イリスは報告書を一度閉じ、
別の紙を取り出した。
そこには、
「回収」ではなく、
「確認」とだけ記されていた。
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