第六話「復讐の果て」

 夜の屋敷は、静かすぎた。

 警備は厳重なはずだった。

 だが、それは表の話だ。

 地震で崩れた裏手の石垣、その下にできた隙間。

 茜は、そこから屋敷の中へ滑り込んだ。

 土と埃の匂い。

 闇。

 胸の鼓動が、うるさいほどに響く。

 ――ここまで来た。

 足は震えていない。

 不思議なほど、頭は冴えていた。

 父が連れて行かれた日のことを思い出す。

 役所の前。

 罵声。

「裏切り者」という言葉。

 父は、何も言い返さなかった。

 ただ一度だけ、茜を見て、小さく笑った。

「大丈夫だ」

 あれは、嘘だった。

 だが、守るための嘘だった。

 奥の座敷にだけ、灯りがある。

 郡司は、まだ起きている。

 茜は、音を立てないよう、そっと廊下を進んだ。

 灯りが、少しだけ近づいた。

 影の中を慎重に足を運んでいく。

 茜は奥の座敷の前に辿り着くと、火の当たっていない障子に身を寄せた。

 体勢を低くし、息を潜める。

 障子越しでも、中から誰かに向けて、はっきりと話す声が聞こえた。

「……杉本は、もう使えんか」

 低く、退屈そうな声。

「震災で混乱しておる。多少の不正など、すぐに埋もれる」

 その言葉を聞いた瞬間、茜の中で、何かが切れた。

 父は、埋もれさせられた。

 人の命は、「多少」で片づけられる。


 茜は、一旦その場を離れた。

 足音を殺し、柱の影に身を寄せる。

 中では、まだ声がしている。

 やがて、それも途切れた。

 襖が閉まる音。

 人の気配が、遠ざかる。

 今だ。

 障子が、静かに開いた。

 部屋の灯りが、廊下にこぼれる。

 その中に、郡司は一人、立っていた。

 茜は、ためらわなかった。

 短刀を抜き、間合いに入る。

「――誰だ」

 郡司が振り向く。

 その目に浮かんだのは、驚きではなく、理解だった。

「ああ……高島の娘か」

 まるで、噂話の続きを見るような口調。

「やはり、来たか」

 茜は答えない。

 喉が、熱い。

「父を返せ」

 それだけ言った。

 郡司は、鼻で笑った。

「返す?」

「もう消えた男だ。正しかったかどうかなど、今さら意味はない」

 その言葉が、最後の引き金だった。

 茜は、踏み込んだ。


 刃は、郡司の胸元に届いた。

 だが、止まった。

 郡司の背後に、屏風。

 その向こうに、気配。

「……伏兵か?」

 違う。

 郡司が、あまりにも無防備すぎる。

「娘」

 郡司は、落ち着いた声で言った。

「私を斬れば、終わりだと思うか? お前の父の名は、戻らん。村も、藩も、何も変わらん」

 それは、事実だった。

 茜は、知っていた。

 だからこそ、ここに来た。

「それでも」

 声は、震えなかった。

「あなたは、生きていてはいけない」

 郡司は、初めて黙った。


 そのとき、外が騒がしくなった。

 足音。

 怒号。

 悠之介だ。

 郡司の顔に、薄い笑みが戻る。

「ほらな。世界は、私の味方だ。お前は、ただの賊だ」

 茜は、刃を握り直した。

 世界が味方しなくてもいい。

 正しくなくてもいい。

 ――これは、私の終わらせ方だ。

 刃が、再び動いた。


 茜は、郡司を斬った。

 くぐもった声が、夜に溶ける。

 彼は膝から崩れ落ちた。

 だが刃は、狙いが逸れたのか、それとも無意識に外したのか――

 深く入らなかったような気がする。

 でも、血はべっとりとついていた。その匂いが、あたりに漂っている。

 息がとても熱く、苦しい。

 茜は、倒れた郡司を見下ろした。

 胸の奥に、何も湧かなかった。

 勝利も、解放も、なかった。

 ただ、長く続いていた音が、止んだ。


 悠之介が、座敷に踏み込んだとき、すべては終わっていた。

 郡司は血に伏し、茜は立っていた。

 二人の視線が、交わる。

「……やったか」

「ええ」

 短い答え。

 悠之介は、郡司を見た。

 まだ、かろうじて生きている。

 だが、もう終わりだ。

「後は、俺が引き受ける」

 茜は、首を振った。

「いいえ」

「これは、私の役目です」

 悠之介は、何も言えなかった。


 夜明け前。

 屋敷は、静まり返っていた。

 郡司は「急病」として処理されるだろう。

 不正は、表に出ない。

 父の名も、戻らない。

 それでも。

 茜は、屋敷を出た。

 振り返らない。

 悠之介は、その背を見送った。

 止めなかった。

 止める権利は、ない。


 朝日が、昇る。

 茜は、名を捨てる。

 悠之介は、刀を収める。

 復讐は、果たされた。

 だが、救いは、なかった。

 それでも――

 終わらせた者だけが、次へ進める。

 その事実だけが、二人に残された。

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孤独の質~選ばれなかった正義 祭影圭介 @matsurikage

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