第五話「剣の意味」

 郡司は、悠之介の名を知っていた。

 それを知ったのは、震災後の混乱がようやく表向きに収まり始めた頃だった。

「孤高の侍剣士がいるそうだな」

 屋敷の奥、障子越しに聞こえた声は、妙に穏やかだった。

 人払いをした座敷の一室で、二人は顔を合わせていた。

「人を斬らずに、厄介事だけを消す男だと」

 悠之介は、座敷の中央に座していた。

 刀は脇に置いてある。

 あえて、手の届く距離ではない。

「用件は」

 短く、そう問う。

 郡司は、扇を指先で軽く叩いた。

「剣が欲しい」

 一瞬、空気が止まった。

「腕が立つ者が必要だ。震災で、世は荒れている。正義だの、規則だのでは、もう抑えきれん」

 郡司は、悠之介を値踏みするように見た。

「お前の剣は、静かだ。無駄な血を流さない」

 悠之介は、視線を逸らさなかった。

「だからこそ、欲しい。壊れたものを立て直すには、力が要る」

 郡司の言葉には、感情がなかった。

 だが、信念はあった。

「私は、血が嫌いだ」

 そう言って、彼は微笑んだ。

「斬らずに済む剣が必要だ」

 その瞬間、悠之介の胸の奥で、何かが軋んだ。

 ――同じ言葉をかつて聞いた。


 記憶は、突然よみがえる。

 藩の制度は腐敗しきっており、うまく機能せず、農村は相次ぐ飢饉・天災などで疲弊していたが、当時は今よりももっと未熟で、まだよくわかっていなかった。

 自分が関わったあの村も、「混乱している」と言われていた。

 年貢が上がり、役人が入れ替わり、村人は声を上げ始めていた。

 名主は、穏やかな男だった。

「不正を告発したい」

 そう言って、悠之介に頭を下げた。

 だが、その翌日、男は「賊」になった。

 藩の命。

 討伐。

 悠之介は、剣を抜いた。

 理由は、単純だった。

 正しい側に立っていると思ったからだ。

 剣は、迷いなく振るわれた。

 技も、判断も、正確だった。

 名主は、抵抗しなかった。

 倒れた後、村人たちは、誰も声を上げなかった。

 感謝も、罵倒もない。

 ただ、一人の老人が、ぽつりと言った。

「これで……話を聞いてくれる人はいなくなった」

 その言葉が、今も胸に残っている。


 その夜、悠之介は屋敷を辞した。

 返事はしていない。

 だが、断ったとも言っていない。

 月明かりの下、歩きながら思う。

 ――なぜ、俺に声をかけた。

 答えは、分かっていた。

 郡司は、剣そのものが欲しいのではない。

 剣を抜かない理由を欲しがっている。

 斬らずに済ませる剣。

 秩序のための剣。

 それは、あまりにも都合がいい。


 一方、茜は屋敷の裏手にいた。

 崩れた石垣が一部あるが、他と比べると地震の被害は少ないようだ。

 彼女は慎重に身を隠してしていた。

 警備の交代。

 見回りの癖。

 そして、人の油断。

 踏み込む時を見定めようとしていた。

 父の顔が、脳裏をよぎる。

 ――正しさを信じた人。

 その正しさが、どう扱われたかを、茜はもう知っている。

「……だから、正しくなくていい」

 声に出すことで、自分に言い聞かせる。

 復讐は、誇れるものではない。

 だが、誰かに委ねるものでもない。


 数日後の夜。

 悠之介は、町外れで郡司の配下と遭遇した。

 言葉は交わさない。

 だが、向こうは待っていた。

「郡司様がお呼びだ」

 悠之介は、足を止めた。

「来い」

 その言葉に、圧はなかった。

 拒めば、力で来る――

 面倒なことになる。

 そういう確信めいたものだけがあった。


 屋敷の一室。

 蝋燭の明かりが微かに揺れる。

 音は無く、二人はしばらく膝を向け合い四半刻ほど座していた。

「どうだ」

 郡司の静かな声。

「お前の剣は、人を救う。斬らずに、秩序を守れる」

 悠之介は、ゆっくりと息を吐いた。

「……救われるのは、誰だ」

 郡司は答えない。

 答えなくても、成立する問いだからだ。

 郡司は、地図を広げていた。

「この辺りだ」

 指したのは、茜が潜んでいると噂される地域だった。

「娘が動いている。 高島の娘だ」

 悠之介の視線が、わずかに動く。

 郡司は、それを見逃さない。

「お前も、知っているだろう」

 郡司は続ける。

「放っておけば、あれはいつか人を殺す」

 静かな断定。

「そうなれば、悪いのは娘だ。私は困らん」

 悠之介の拳が、わずかに握られる。

「だから、お前の剣が必要だ」

 郡司は、扇を閉じた。

「止めてこい。斬らずにな」

 その瞬間、悠之介は理解した。

 これが、郡司の剣の使い方だ。

 自分は斬らない。

 だが、斬る理由を作る。

 そして、その刃を他人に持たせる。

「……俺が行けば、あの娘は救われると?」

 郡司は、微笑んだ。

「救われるかどうかは、知らん。だが、秩序は保たれる」


 屋敷を出たあと、悠之介は刀を抜いた。

 人に向けてではない。

 誰もいない場所で。

 夜の空に。

 月明かりに照らされた刃は、静かだった。

 月光を反射するそれを見つめながら、思う。

 ――剣は、人を斬れる。

 ――だが斬らないことで、誰かを追い詰めることもできる。

 それを自分は知っている。

 だからこそ、この剣を郡司のためには抜かない。

 それだけは、揺がなかった。


 後日――

 夜明け前の空は、まだ色を決めかねているようだった。

 瓦礫の町は静かで、人の気配だけが、かすかに残っている。

 郡司は、役所の裏庭に立っていた。

 敗北の色はない。

 怒りもない。

 ただ、計算違いを認める顔だった。

「娘は、去ったか」

 悠之介は答えない。

 答えなくても、郡司には分かっている。

「……そうか」

 郡司は、わずかに息を吐いた。

「私は、間違ってはいない」

 それは、言い訳ではなかった。

 事実確認だった。

「混乱は抑えられた。復興は進む」

「犠牲も、最小限だ」

 悠之介は、郡司を見る。

「最小限、という言葉は」

 静かに言う。

「切り捨てる側が使う」

 郡司は、初めて目を伏せた。

「では、どうすればよかった」

 問いは、責任から逃げるものではない。

「……分からん」

 即答だった。

「だが」

 刀の柄に、軽く触れる。

「斬らない選択が、常に正しいわけでもない」

 そこで悠之介は、少し考えた。

「斬る選択を一人で決めるべきでもない」

 郡司は、口を閉ざした。

 それ以上の議論は、必要なかった。

 二人は、違う孤独を選んだだけだ。


 その夜。

 茜は、屋敷の裏手に立っていた。

 灯りの配置、巡回の間隔など、全て頭に入っている。

 父が冤罪を着せられた日の夜、彼女は屋敷の外で、同じように灯りを見ていた。

 あの日、何もできなかった。

 ――今度は、違う。

 短刀の重みが、帯越しに伝わる。

「今しかない」

 それは誰に言うでもない、事実だった。

 父の顔が浮かぶ。

 正しい人だった。

 だが、誰にも助けを求めなかった。

「……だから、私が終わらせる」

 彼女はそう呟き、闇の中に溶けた。


 夜は、再び重なろうとしていた。

 悠之介は、郡司の思惑を断ち切るために動く。

 茜は、自分の終わりを決めるために動く。

 剣は、まだ意味を持たない。

 だが、意味を与える相手だけは、選ばれ始めていた。

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