第四話「追われる者、残る者」
夜が明けても、茜は眠らなかった。
山道の先、村の外れにある崩れかけた納屋の影で、膝を抱えたまま空が白むのを見ていた。身体は疲れているはずなのに、目を閉じると、郡司の屋敷で聞いた足音や、追っ手の声が蘇る。
――逃げている。
その事実が、胸の奥で鈍く響いていた。
納屋の戸が、ぎい、と音を立てて開いた。
「……まだ、ここにおったかい」
皺だらけの顔をした老婆が、籠を抱えて立っていた。
茜は一瞬身構え、すぐに力を抜いた。
「少しだけ、休ませてください」
老婆はため息をつき、納屋の中に籠を置いた。
「若いのに、顔に出とるよ。追われる身の顔だ」
老婆は、茜の帯に下がった根付を見て、目を細めた。
「……あんた、高島の娘かい」
茜は、はっとした。
「お父上には、昔、助けられた」
老婆は静かに言った。
「飢饉の年に、米を分けてくれた。藩の上役に睨まれるのを承知でな」
茜の喉が、詰まった。
父は、孤独に戦っていたのではなかった。
知らないところで、確かに人を救っていた。
「……なら」
言いかけて、茜は言葉を飲み込んだ。
匿ってほしい。
そう言えば、この人は苦しむ。
老婆は、茜の心を見透かしたように、首を振った。
「すまんね。あんたを助ければ、この村が終わる」
その声に、迷いはなかった。
「郡司に逆らう者は、残らん。正しいかどうかじゃない。生き残れるかどうかだ」
老婆は籠の中から、握り飯を一つ取り出し、黙って差し出した。
「これ以上は、できん」
それだけ言って、背を向けた。
茜は、握り飯を両手で受け取り、深く頭を下げた。
涙は、出なかった。
――正しいことは、迷惑になる。
その言葉が、胸に沈んだ。
一方、悠之介は城下の役所にいた。
杉本は縄を打たれ、役人たちに囲まれている。
帳簿と証言は揃っていた。
「よくやったな」
上役は、穏やかに笑った。
「藩として、しかと受け取る」
その声に、悠之介は違和感を覚えた。
軽すぎる。
まるで、厄介事を引き取るような口調だった。
「これで、郡司の不正は――」
言いかけた悠之介を、上役は手で制した。
「今は、時期が悪い」
静かな声だった。
「震災の責任を追及すれば、藩は混乱する。誰かが悪者になればいい。だが、今はそれが郡司である必要はない」
悠之介は、言葉を失った。
「正しいことをした。それは認める」
上役は、書類をまとめながら続けた。
「だが、正しさは管理しなければならん。波風を立てる正義は、害になる」
杉本は、連れて行かれた。
だが、あの男が裁かれる気配はなかった。
役所を出た悠之介の背中に、城下の喧騒が遠く響く。
剣を抜かなかった判断は、間違っていなかった。
だが――
守れたものは、何もない。
その事実が、重くのしかかった。
夕刻。
悠之介は、町外れのかろうじて倒壊を免れた馴染の鍛冶場で、刀を研いでいた。
刃に映る自分の目が、以前と違って見える。
――剣を抜かない選択も、人を殺す。
誰かの希望を。
誰かの逃げ場を。
彼は、初めてそれを知った。
その頃、茜は別の村の裏道を歩いていた。
昼間、郡司配下の者が村に入ったという噂を聞いた。
もう、逃げ場はない。
父の形見の根付を、強く握る。
「正しくなくていい」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟いた。
「これ以上、奪わせない」
夜。
郡司の屋敷では、警備が強化されていた。
一方で、震災の影響で、裏手の古い通路が崩れていることを、茜は知っていた。
悠之介もまた、屋敷の灯りを遠くから見ていた。
郡司は、動く。
必ず。
同じ夜。
同じ敵。
だが、二人はもう、互いの存在を思わなかった。
それぞれが、自分の選んだやり方で、終わりへと歩き始めていた。
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