第三話「刃の届かない場所」
夜の空気は、張りつめていた。
月は出ていない。
そのぶん、音だけがはっきりと耳に届く。
馬の足音。
鎧の擦れる音。
低く抑えた声。
悠之介は、木立の陰で身を低くし、街道の気配を探っていた。
郡司配下の役人・杉本は、震災の視察という名目で村々を回っている。
だが、その実態は違う。
「被害が大きすぎる」
「記録に残せない者もいる」
そう言って、人を消す男だ。
――斬れば、終わる。
それは事実だった。
だが、斬った瞬間に、すべてが闇に沈む。
悠之介は、息を整えた。
今日は、剣の腕を試す日ではない。
剣を“使わない”覚悟を試す日だ。
街道沿いの茶屋は、震災で潰れていた。
杉本とその護衛の男は、仕方なくその裏手で夜を明かすつもりらしい。
荷を下ろして焚火の準備をしているようだ。
二人が眠りにつくのを待つという手もあったが、もしかしたら他にも人が集まってくるかもしれない。
油断している今が、絶好の好機と見た。
悠之介は、背後から近づく。
一瞬で護衛を制圧できる距離。
だが、斬らない。
柄で鳩尾を打ち、足を払って倒す。
倒れた護衛の向こうで、杉本が息を呑むのが見えた。
悠之介は、敵に刀を抜かせる暇を与えず一気に間合いを詰め、刃を喉元に突きつける。
「声を出せば、斬る」
杉本は、青ざめて頷いた。
「帳簿のことを話せ」
「……あ、あれは郡司様の命で……」
震える声。
嘘ではない。
悠之介は、剣を下ろさなかった。
この男は、悪だ。
だが、全てではない。
一方、茜は蔵屋敷にいた。
闇の中、足音を殺して進む。
杉本が管理していた蔵。
父が言っていた言葉を、思い出す。
「真実は、光の届かぬ場所にある」
蔵の扉には、掛け金があった。
だが、歪んでいて、指で押すだけで外れた。
蔵の扉を開けた瞬間、端の方で黒い影が動いた。
「誰だ!?」
見張りか――
反射的に、短刀が走った。
刃が、相手の肉を裂く。
男の悲鳴。
茜は、その場から逃げた。
胸が、苦しい。
斬った。
初めて、人を斬った。
殺してはいない。
だが、戻れない。
夜明け前。
二人は、偶然にも、川辺で顔を合わせた。
一瞬、互いに言葉を失う。
茜の短刀には、血がついていた。
悠之介は、それを見た。
「……斬ったか」
「ええ」
茜は、隠さなかった。
「あなたは?」
「斬らなかった」
沈黙。
川の水音だけが、流れる。
「それで、何か変わりましたか」
茜の声は、責めてはいなかった。
悠之介は、正直に答えた。
「いや。何も」
茜は、少しだけ笑った。
「そうでしょうね」
そして、真っ直ぐ悠之介を見た。
「私は、戻れません」
「……ああ」
否定しなかった。
止めることも、しなかった。
それが、彼の選択だった。
「でも」
茜は続けた。
「あなたが斬らなかったことを、私は否定しません」
「それでいい」
悠之介は、そう言った。
「お前は、お前のやり方で行け」
茜は、頷いた。
「あなたも」
二人は、同じ方向を見なかった。
だが、同じ敵を知っていた。
茜は、闇の中へ消えた。
悠之介は、その背を追わなかった。
剣を握りながら、思う。
剣は、人を斬れる。
だが、人の選択までは、斬れない。
その夜、二人は完全に別の道を歩き始めた。
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