第二話 「正しさの代償」
茜が父と最後に口論した日のことを、今でもはっきり覚えている。
その日は、夕餉の支度が遅れた。
父は、役所から戻るなり帳面を広げ、黙ったまま筆を走らせていた。
「……また?」
思わず、そう言った。
父は顔を上げない。
「急ぎの仕事だ」
「急ぎばっかり」
茜の声は、少し尖っていた。
「父上、最近ずっとそうだよ」
帳面を閉じる音が、部屋に響いた。
「これは遊びじゃない」
「分かってる」
茜は言い返した。
「でも、父上が一人で抱え込むことないでしょ」
父は、しばらく黙っていた。
「誰かに頼めばいい」
「藩に言えばいい」
「……それができないから、父上がやってるんでしょ?」
父は、ゆっくりと首を振った。
「藩に言えば、 事実は歪められる」
「なら、もっと上に――」
「同じだ」
父の声は、きっぱりしていた。
「正しいことは、正しく扱われないことがある」
その言葉に、茜は言葉を失った。
「……じゃあ、どうするの」
父は、帳面を抱え直した。
「やるべきことを、やる」
それ以上は、何も言わなかった。
数日後――
父は、役所の前で茜に向かって「大丈夫だ」と言った後、役人達に連れられて門の向こうに消え、それからいつまで経っても戻らなかった。
「高島は、裏切り者だったらしい」
誰かが言った。
「藩に損害を与えた」
誰かが、そう付け足した。
茜は、その言葉を聞いたとき、怒りよりも先に、奇妙な納得を覚えた。
――ああ、やっぱり。
父は、そうやって消される人だった。
茜は、父の足跡を追った。
話を聞いて回る中で、奇妙なことに気づく。
父に感謝している人は、いる。
だが、父を頼ろうとする人は、いない。
「真面目な人だったよ」
「嘘はつかない人だった」
「でも……」
言葉は、そこで止まる。
「融通が利かなかった」
ある村人は、そう言った。
「助けてもらえなかったこともある」
それは、恨みではない。
ただの事実だった。
茜は、胸の奥が痛んだ。
父は、正しかった。
でも、誰のそばにも立たなかった。
夜、月明かりの下――
瓦礫の間で茜は一人、薄汚れた地面に両膝を突きながら、父の帳面を開いていた。
数字。
記録。
不正の痕跡。
そして郡司の名――
すべて、正しい。
だが、そこに父の感情はない。
「……なんで」
思わず、声が漏れる。
「どうして、一人でやったの」
答えは、分かっている。
正しいと思ったからだ。
それが、父の答えだった。
帳簿を見ていると、とても悲しい気持ちになる。
震災の中持ち出せた、帳簿以外で唯一の形見である、帯の根付が心の支えだった。
彼女はその上に、そっと両手を重ねた。
そのとき、足音がした。
視線を向けると、悠之介だった。
瓦礫の影から現れ、帳面に目を落とす。
「こんなところで広げるな。ぶっそうだぞ」
だが茜は、隠さなかった。
「正しいことが書いてあります」
悠之介は、しばらく黙っていた。
「正しさは」
やがて、そう言った。
「ときに、とんでもない代償を払え――と、求めてくる」
茜は、彼を見た。
「払う価値は、ありますか」
問いは、真剣だった。
悠之介は、すぐには答えなかった。
「……払わされた人間を何人も見てきた」
それだけ言った。
沈黙が、二人の間に落ちる。
茜は、帳面を閉じた。
「それでも――。私は、父をなかったことにされるのが、一番嫌です」
悠之介は、その目を見た。
逃げていない。
だが、覚悟もまだ、固まっていない。
その中間に、茜は立っていた。
「……手を貸せとは言いません」
昨日と同じことを、彼女は確認する。
「でも、止めもしないでください」
悠之介は、答えなかった。
だが、その場を去らなかった。
それが、この夜の答えだった。
正しさには、ときに思いもよらない大きな犠牲がある。
高島は、それを一人で払った。
茜は、その続きを、自分で払おうとしていた。
一晩経って朝になったが、それでも空気は重かった。
地震で舞い上がった埃はすでに落ち着いていたが、代わりに村全体を覆っているのは、言葉にならない不安だった。
昼には、死者が無造作に荷車に乗せられて次々と担ぎ出され、遺体置き場に投げ捨てられた。
死臭が漂い、多くの蠅が死神のように呻っていた。
親を失った子供は泣きながら町を彷徨い、女は暴漢どもに襲われた。
真冬なら、寒さでもっと死者は増えただろう。
藩の方もこのときばかりは、さすがに手をこまねいているばかりではなかった。
夜、人々は焚き火の周りに集まり、郡司の名を口にする。
「郡司様が、米を出してくださったそうだ」
「ありがたいことだ……。この状況で、あの方がいなければ」
悠之介は、少し離れた場所からその様子を見ていた。
――人は、弱っている時ほど、強いものに縋る。
剣の理と同じだ。
均衡を失った相手は、最初に差し出された刃を「支え」だと勘違いする。
遠くで、役所の提灯が揺れている。
復興。
秩序。
管理。
言葉は、いつも先に立つ。
悠之介は、刀の柄に触れた。
まだ、抜かない。
だが――
今朝ぐらいから、郡司の名を盛んに聞くようになった。
震災復興の責任者。
冷静で、実務に長けた役人。
「混乱に立ち向かう庶民の味方」
そう評され始めている。
「……行きましょう」
隣で、茜が小さく言った。
昼の間に集めた話から、物資が一度、郡司配下の役人・杉本という男の管理する蔵に集められていることは分かっていた。本来なら、被災者へ配られるはずの米や木材だ。
二人は月明かりを頼りに、蔵屋敷へと向かった。
蔵の中には、すでに人の気配があった。
「記録は、ここでまとめ直す」
「死者の数は……この村は多すぎるな」
聞き覚えのある言い回しに、茜の肩が強張った。
帳簿をめくる音。
墨をすする音。
悠之介は、蔵の隙間から中を覗いた。
杉本と、その部下がいた。
机の上には帳簿が積まれ、そこに記されている名は――
「……」
悠之介は息を潜めた。
「“地震による行方不明者”として処理する。生きているかどうかは、関係ない」
その言葉に、茜の指が震えた。
「このやり方、前にも使ったな」
「ああ。郡司様のお気に入りだ」
杉本が笑う。
「逆らう者は、災害で消える。便利な世の中だ」
その瞬間、茜が短刀を握りしめた。
悠之介は、気づいた。
――今、彼女は“戻れないところ”に立っている。
蔵の中へ踏み出そうとする茜の腕を、悠之介は強く掴んだ。
「離してください」
声は低く、抑えられている。
だが、内側で何かが燃えているのが分かった。
「今、斬れば終わる」
「終わらない」
悠之介は、はっきりと言った。
「斬れば、お前の父が書き残した真実は、闇に沈む」
「……それでも」
茜は、悠之介を睨んだ。
「父は、正しかった。でも、その“正しさ”を信じた結果、殺されました」
蔵の中で、帳簿が閉じられる音がした。
話は終わり、男たちは立ち去ろうとしている。
時間がない。
「また待てと言うんですか」
「違う」
悠之介は、初めて茜の目を正面から見た。
「俺は、待てとは言わない。だが、斬る順番を間違えるな」
「……順番?」
「最初に斬るべきは、人じゃない。仕組みだ」
その言葉に、茜の表情が揺れた。
怒りでも、否定でもない。
――理解しかけている顔だった。
だが、それでも。
「あなたは……正しい」
茜は、短刀を下ろした。
「でも、その正しさで、救われない人がいることも、知ってください」
蔵の扉が開き、男たちが外へ出てくる。
二人は闇に身を沈めた。
やり過ごしたあと、茜は静かに言った。
「私は、待ちません。でも……あなたの邪魔はしない」
それは、約束ではなかった。
宣言でもなかった。
ただの、分かれ道だった。
夜明け前。
蔵屋敷を離れ、二人は村外れの高台まで歩いた。
並んで座り、崩れた村を見下ろしている。
同じ場所にいる。
だが、向いている先は、もう違う。
「郡司は、気づく」
悠之介が言った。
「俺たちが動いていることに」
「でしょうね」
茜は、淡々と答えた。
「だから、私は先に行きます」
悠之介は止めなかった。
止めれば、彼女は立ち止まるだろう。
だが、それは彼女から“選ぶ権利”を奪うことになる。
「……生きろ」
それだけを言った。
茜は、一瞬だけ振り返り、微かに笑った。
「あなたも」
そう言って、闇の中へ消えた。
悠之介は、一人残された。
剣の柄に手を置きながら、思う。
――誰かを信じるとは、同じ道を歩くことではない。
それでも彼の剣は、もう以前のように、ただ自分のためだけには振るえなくなっていた。
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