第20話

 宿屋を借り上げた夜は、静かだった。


 静かすぎる夜ほど、罠の匂いが濃い。


 廊下の軋み、階下の咳払い、窓の外の足音。どれも大きくはないのに、耳に張りつく。人が眠るために作られた場所で、眠れないのは“誰かが起きている”証拠だ。


 セラフィナは窓辺に立ち、暗い通りを見下ろした。人影が二つ、三つ。巡回ではない。巡回の歩き方ではない。


 マラが背後で小声を落とす。


「外、張ってるね。宿場代官補佐のグレムが散らしたはずなのに」


「散らしたのは“観客”だけよ」


 セラフィナは淡々と言った。


「舞台袖の人間は残る。袖の人間が、次の幕を上げる」


 扉が小さくノックされた。


 レイヴンの部下が顔を出す。


「隊長殿から。……宿場代官補佐グレムが、署名の確認を求めている」


 セラフィナは目を細めた。


「確認?」


「『宿屋の借り上げ命令』に関する補助書面です。税と補償の――」


 マラが小さく笑った。


「来た。紙で首を絞める方」


 セラフィナは頷いた。


「行く」


     ◆


 階下の広間。


 机の上に蝋燭が並び、紙束が広げられている。グレムが座り、宿屋の女将が怯えた顔で隣に立っている。白衣はいない。だが空気は教会の匂いがする。


 グレムが作り笑いで立ち上がった。


「セラフィナ様。……いや、破門者殿。王家の隊長が借り上げを命じましたが、宿場の規則上、補助書面に“当事者”の署名が必要でして」


 当事者。つまり、セラフィナにも署名させたい。


 署名させれば、彼女に責任を載せられる。責任を載せれば、噂が作れる。


 ――破門者が宿場を脅し、宿屋を奪った。


 セラフィナは紙を一瞥し、即座に言った。


「要らない」


 グレムの笑いが固まる。


「は……?」


「宿屋の借り上げ命令の当事者は王家の指揮官。私ではない。私が署名すれば、あなたは責任の主体をずらせる。ずらしたい理由は何?」


 グレムが喉を鳴らす。


「いえ、私はただ規則を――」


「規則なら条文を示しなさい」


 セラフィナは静かに言った。


「宿場規則の何条何項。あなたの印が押された写しで」


 グレムの視線が泳ぐ。条文などないか、あっても“曖昧”だ。曖昧なら利用できる。


 セラフィナはその曖昧を許さない。


「条文が出せないなら、あなたの要求は恣意。恣意なら、記録に残る」


 グレムが慌てて言った。


「で、では隊長殿の署名だけで――」


「それで十分」


 セラフィナは即答した。


 宿屋の女将がほっと息を吐く。彼女は署名の意味など知らない。だが“破門者が奪った”という噂が立てば、宿屋が潰れる。だから怖い。


 セラフィナは女将へ淡々と言った。


「補償は王家が払う。領地の金は使わない。――あなたは帳簿を残して。明日、マラが確認する」


 マラが片眉を上げる。


「了解。領収は全部取る」


 グレムが唇を噛み、最後の手を出した。


「しかし……宿場の治安のため、破門者殿には“外出禁止”の札を――」


 外出禁止。札。拘束の一種。


 それを付ければ、明日から“逃亡防止”の名目で自由を奪える。自由を奪えば、噂を作りやすい。


 セラフィナはグレムを見た。


「札を付ける権限は誰が持つ?」


「宿場の――」


「持たない。王命の護送中よ。ここでの拘束権限は王家にある」


 セラフィナは横にいるレイヴンの副官へ視線を投げた。


 副官が低く言う。


「その通りだ。地方の札は不要」


 グレムの笑いが完全に死んだ。


 彼は引き下がるしかない。


 セラフィナは、そのまま話を終わらせない。終わらせれば、相手は次の場所で別の形を作るだけだ。


 彼女は机の上の紙束の端に、見覚えのある印を見つけた。


 丸い印章。宿場の印ではない。教会の印でもない。


 商会の印。


 マラも気づき、目が鋭くなる。


「……ねえ、それ。なんで商会の印がここにあるの?」


 グレムが慌てて紙を引こうとする。


「これは……宿場の物資調達の――」


 マラが紙を押さえ、逃がさない。


「宿場の調達に、うちの系列印が使われてる。誰が押したの?」


 グレムの喉が鳴る。これは彼の手札ではない。彼の背後の糸だ。


 セラフィナは静かに言った。


「教会が糸を引いているなら、商会にも糸が繋がっている。――マラ、あなたの商会に“偽印”が出回ってる可能性」


 マラが頷く。


「……ある。最近、ルートが妙に荒れてた。ここで繋がるか」


 グレムが苦し紛れに言う。


「誤解です! 私はただ――」


 セラフィナは遮った。


「誤解なら、あなたの帳簿を見せなさい。誰から紙を受け取り、誰の指示で印を押したのか」


 グレムが口を開けて閉じる。帳簿を見せれば、糸が見える。糸が見えれば、彼は切られる。


 つまり見せない。


 セラフィナは頷いた。


「見せないなら、あなたは“見せられない”」


 その一言が、宿屋の女将の目に刺さる。女将は政治を知らないが、人の嘘は分かる。見せられないのは、やましいからだ。


 セラフィナは女将へ、淡々と最後の釘を刺した。


「女将。明日、あなたの帳簿を写して保管して。宿場の役人が押収に来たら、まず王家に相談」


 女将が震えながら頷く。


「は、はい……」


 セラフィナが広間を出ようとした瞬間、レイヴンの副官が小声で言った。


「隊長殿がお呼びです。上へ」


     ◆


 レイヴンの部屋。


 彼は窓際に立ち、外の通りを見ていた。振り返らずに言う。


「この宿場は腐っている」


「ええ」


 セラフィナは短く返す。


「代官補佐が台本を読んでる。教会の糸がある」


 レイヴンが低い声で言った。


「……お前は、王都に着く前に“民の敵”として固められる。道中で噂が広がれば、王都での裁きは楽になる」


 セラフィナは黙って聞いた。


 レイヴンは続ける。


「だから俺は、早朝に出る。宿場に長居しない。――だが、もう一つ問題がある」


「何」


 レイヴンが振り返り、目を細めた。


「グレムが出した“外出禁止札”の案。あれは俺が拒否した。だが代わりに、王都から来た伝令が別の案を持ってきた」


 セラフィナの背筋が冷える。


「別の案?」


「護送隊を、途中の“聖堂”で一晩休ませる命令だ。名目は安全確保。――聖堂は教会の庭だ」


 セラフィナは息を吸い、ゆっくり吐いた。


 道中の舞台が、次は“聖堂”になる。


 祠より大きい舞台。観客も増える。証拠を奪うのも簡単になる。


 レイヴンが冷たく言った。


「拒否するには理由が要る。お前は、理由を作れるか」


 セラフィナは即答した。


「作る。――“聖堂で休むと危険になる”理由を、紙で」


 レイヴンが眉を寄せる。


「どうやって」


 セラフィナは静かに言った。


「今日見つけた偽印。宿場の糸。――教会が物流に手を入れてる。聖堂に入れば、補給と証拠が抜かれる」


 レイヴンの目が僅かに揺れる。


「……それを証明できるのか」


「証明する」


 セラフィナは淡々と返した。


「明日の朝、最初の宿場で“確認”を取る。マラの商会網を使う。偽印の出所を辿る」


 レイヴンが短く息を吐いた。


「……お前は本当に、紙で戦うな」


「紙は弱い」


 セラフィナは言った。


「だから数を積む。数が増えれば、紙は鎧になる」


 窓の外で、通りの影が動いた。


 教会の糸は、もうこの宿場だけではない。道中のあらゆる宿に絡みついている。


 だからこそ、次の一手は速く、鋭くなければならない。

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