第19話

宿場町は、戦場より残酷だ。


 剣は目に見える。矢も見える。火も見える。だから避けられる。


 噂は見えない。だから肺に入る。気づいた時には呼吸が苦しくなる。


 宿屋の前に落ちた祈り布――そこに縫い付けられた棘の印は、ただの布ではない。


 “証拠”の形をした刃だった。


 レイヴンが布を拾い上げる前に、セラフィナが言った。


「触れないで」


 レイヴンが眉を寄せる。


「なぜだ」


「触れた瞬間、あなたの指紋がつく。あなたが触れた布は、明日には『王家が証拠を隠した』になる」


 レイヴンの目が細くなる。


「くだらん」


「くだらないほど効くのが噂よ」


 セラフィナは淡々と返した。


 周囲ではもう、囁きが増えている。


「見ろ、棘の印だ……」


「聖具に穢れを……」


「王家が庇ってる……」


 声は小さいが数が多い。数が正義に化ける。


 マラが小声で言った。


「誰か、わざと落とした。布の縫い目、綺麗すぎる」


「ええ。舞台装置」


 セラフィナは視線だけで群衆をなぞった。白衣ではない服。だが祈り珠。手の所作が教会のもの。数人いる。観客の中に混じって、噂の起点を作っている。


 セラフィナはレイヴンへ言った。


「宿屋の前を塞がない。ここで立ち止まるほど、噂の燃料になる」


「入る」


 レイヴンが短く命じ、騎士たちが隊列を組んでセラフィナを囲む。宿屋へ押し込むように入る。


 だが――押し込む動きは、“罪人を連行する動き”に見える。


 誰かがそれを待っていた。


 宿屋の扉が開き、女が飛び出してきた。髪は乱れ、目が血走り、子を抱いている。子は咳き込み、顔色が悪い。


「お願いです! 聖者様! この子を……!」


 女は白衣の方へ駆けようとするが、白衣は“観客”の中に散っているだけで、表には出ない。だから女は行き先を失い、そして――目の前にいる“目立つ存在”へ向かう。


 セラフィナ。


 女が叫ぶ。


「あなた! 破門者だろう!? 呪いを連れてきたんだろう! この子が昨日から咳が止まらない! あんたのせいだ!」


 群衆がどよめく。宿場の噂刃は、こういう形で刺す。


 セラフィナは女の目を見る。恐怖と疲労。計算ではない。だが、この女を“舞台”に使ったのは別の誰かだ。


 レイヴンが低く命じる。


「下がれ。王命の護送だ」


 女が泣き叫ぶ。


「王命なんて知らない! 子どもが死ぬのよ!」


 泣き声に群衆が揺れる。揺れれば、誰かが石を投げる。石が飛べば、騎士が剣を抜く。剣が抜ければ、教会は“暴力”を指差す。


 同じ舞台を、道中で何度も繰り返すつもりだ。


 セラフィナは一歩前へ出た。騎士が止めようとするのを、手のひらで制す。


「咳ね」


 セラフィナの声は静かだった。怒らない。反論しない。責めない。


 女は怯えながらも叫ぶ。


「そうよ! 咳が……熱も……!」


 セラフィナは子の顔を見た。唇が乾いている。目がうつろ。胸が浅く上下する。――致命的ではないが、放置すれば危うい。


 彼女はマラへ言った。


「塩水。少し。蜂蜜があれば」


 マラが眉を上げる。


「ここで?」


「ここで」


 セラフィナは言った。


「噂は言葉で切れない。現実で切る」


 マラが宿屋の女将へ銅貨を投げる。


「蜂蜜とぬるま湯! 急いで!」


 女将が慌てて引っ込み、すぐ器を持って戻る。マラが塩をひとつまみ落とし、蜂蜜を溶かす。


 セラフィナは女へ言った。


「飲ませて。少しずつ。咳は水分が切れると悪化する」


 女は半信半疑で子の口へ器を当てる。子が少し飲み、咳が一拍落ち着く。完全には止まらないが、呼吸が楽になる。


 群衆のざわめきが少し変わる。“悪役”が子を助けた。物語が揺れる。


 だが舞台は終わらない。


 観客の中の白衣が声を上げた。目立たない声、けれどよく通る声。


「騙されてはいけません! 破門者の施しは、呪いを染み込ませる毒です!」


 群衆が再びざわつく。やはり白衣が混じっている。噂の刃は二段構えだ。


 セラフィナはその声の方向を見た。顔は普通。だが祈り珠を持つ指が、硬い。


 セラフィナはレイヴンへ言う。


「今の声、聞いたわね。――“毒”だと言った。なら、証拠を出せるはず」


 レイヴンの目が細くなる。


「証拠?」


「私が渡したのは塩水と蜂蜜。もし毒なら、あなたの騎士が同じものを飲んでみなさい。――あなたの監視下で」


 周囲の騎士が一瞬固まる。


 だがレイヴンは、少しだけ状況が読める男だ。ここで“検証”を拒否すれば、噂の側に寄る。


 レイヴンは短く命じた。


「シリル。飲め」


 シリルが器を取り、躊躇なく飲んだ。塩水の甘さに顔をしかめる。


「……ただの蜂蜜水だ」


 群衆がどよめく。白衣の声が止まる。


 セラフィナはその瞬間を逃さない。


「毒だと言った者、前へ」


 沈黙。


 誰も出ない。出れば、嘘が露見する。


 セラフィナは淡々と続けた。


「出ないなら、今の言葉は“扇動”として記録する。――王家の隊長殿、あなたの署名で」


 レイヴンの顎が僅かに動く。苛立ち。だが彼は昨日署名をした。今日も署名が増える。署名が増えれば、彼自身が後戻りしづらくなる。


 彼は短く言った。


「……記録する。だが、ここで騒ぎを広げるな」


「広げてるのは私じゃない。彼らよ」


 セラフィナは冷静に返し、女へ向き直った。


「あなたの子は、呪いではない。乾きと寒さと疲れ。――ここは宿場。人が多い。病は広がる。だから手洗いと湯を。寝かせて」


 女は泣きながらも頭を下げた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


「謝らなくていい」


 セラフィナは淡々と答えた。


「あなたは子を守りたいだけ。――それを利用する人間がいる」


 その言葉に、女が顔を上げた。利用、という単語が胸に刺さったのだろう。


 群衆の中で、白衣の目が細くなる。舞台が揺れた。だから次の刃が来る。


 宿屋の奥から、今度は男が出てきた。宿場の役人風の服。腰に札。顔に作り笑い。


「王家の騎士殿! ここは宿場町。治安維持のため、破門者は地下の留置へ――」


 レイヴンが冷たく遮る。


「王命の護送だ。地方の留置は不要」


 役人は笑いを崩さず言う。


「しかし、民が不安がっております。――このままでは暴動が起きかねません」


 暴動。便利な言葉だ。暴動を口実にすれば、拘束が正当化される。


 セラフィナは役人の目を見た。


 この男は民を心配していない。順番を踏んでいるだけ。誰かの台本を読んでいる。


 彼女は静かに言った。


「あなたの名は」


「……宿場代官補佐、グレム」


「グレム。あなたは暴動を恐れていると言った。なら、暴動を煽る者を止めるのが仕事よ」


 セラフィナは視線を群衆の白衣へ向けた。


「毒だと叫んだ者、そして証拠を出さない者。――彼らが煽っている。拘束するべきは、私ではない」


 グレムが笑う。


「それは……聖なる者に手出しは――」


「聖なる者?」


 セラフィナの声が冷えた。


「聖なる者なら、嘘をつかないはず」


 レイヴンがその言葉に反応した。昨夜、黒法衣が桶を倒したことを見た。今日、白衣が毒と叫んで引っ込んだ。彼の中で“聖”が少しずつ剥がれている。


 レイヴンは役人へ言った。


「地下留置は不要だ。代わりに宿屋を全室借り上げる。外の民は散らせ。――散らせないなら、お前の責任だ」


 グレムの笑いが固まる。責任を押し付けられるのが一番怖い顔だ。


「……承知しました」


 役人が退き、群衆が散らされ始める。白衣も混じって消える。舞台装置が片付けられる。


 だが片付けられるのは舞台だけだ。


 台本を書いた者は、まだ残っている。


 セラフィナは宿屋の階段を上がりながら、マラへ小声で言った。


「白衣が混じってた。宿場の役人も動いてる。――道中の舞台は“宿”を使う」


 マラが頷く。


「つまり、次の宿も罠」


「ええ。次も。次も」


 セラフィナは廊下の窓から外を見た。


 夕暮れの中、宿場の端で、祈り珠を持つ男が一瞬だけこちらを見て、そして消えた。


 目が笑っていた。


 ユストではない。もっと厄介な目だ。


 セラフィナは息を吸い、胸の奥の冷たさを飲み込む。


 ロゼンが、道中の舞台を組んでいる。


 王都へ着く前に、彼女の名を“民の敵”として固めるために。


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