第18話

祠の前の草原は、短時間で戦場になった。


 だがこれは、剣の戦場ではない。


 観客の前で作られる“物語”の戦場だ。


 札束を小川へ投げた瞬間、怪物の群れの軌道が変わった。まるで鼻先に餌をぶら下げた犬のように、流れへ吸い寄せられる。


 その迷いの一拍で、王家の槍隊が間に入った。盾が前へ、槍が横へ。人間相手の隊列が、怪物相手に“ぎりぎり”通用する形になる。


 ルシアンがいない今、王家の隊列を支えるのはシリルの声だった。


「喉を狙うな! 脚を止めろ! 鉄を突き立てろ!」


 彼は昨日の戦いで学んでいる。鉄が効く。脚を止めれば、隊列が生きる。


 セラフィナは刻印板を抱え、民の視線がどこへ向いているかだけを見た。


 今、この場の勝敗は“怪物を倒したか”だけでは決まらない。


 “誰が怪物を呼んだか”が勝敗を決める。


 だからこそ、彼女は黒法衣を見た。


 黒法衣は後退している。だが逃げてはいない。観客がいる。ここで逃げれば、物語が割れる。だから踏みとどまる。


 白衣たちが必死に叫ぶ。


「聖印を返せ! 王家が聖域を汚した!」


「破門者が禁術を使った! 神罰だ!」


 言葉で塗りつぶす。いつものやり方。


 セラフィナは、塗りつぶしに塗りつぶしで返さない。目に見えるものを上に置く。


 彼女は刻印板を掲げ、民の方へ見せた。


「見たでしょう。反応は私ではない。――札だ」


 民がざわつく。目に見える光は強い。


 黒法衣が叫ぶ。


「偽物だ! 異端の道具だ! その板が――」


 セラフィナは静かに言った。


「なら、あなたが触れてみなさい」


 黒法衣の喉が詰まる。触れない。触れたくない。


 触れない理由を、観客は言葉にしなくても理解する。


 怪物の一体が槍で倒れ、地面が揺れた。血が草に滲む。霧が薄く、赤が見える。


 戦いは終わりに近い。


 そして終わりに近いほど、教会は“逃げ道”を用意する。


 黒法衣が声を張った。


「王家の騎士よ! 聞け! この女がいる限り、呪いは追う! 護送中に民が死ねば、それは王家の責任だ!」


 レイヴンが冷たく返す。


「責任は俺が取る。退け」


 言葉は強いが、強い言葉ほど危うい。責任を取ると言った者ほど、責任を取らされる。


 セラフィナはレイヴンの背中を見た。


 この男は、今は味方でも敵でもない。


 “形”の人間だ。


 形が崩れれば、彼は彼女を切り捨てる。形が保てれば、彼女を道具として使う。


 彼女も同じだ。


 彼は盾にもなるが、盾はいつでも裏返る。


     ◆


 怪物の残りが小川へ吸い寄せられ、槍で仕留められると、祠前の騒乱は収束した。


 黒法衣は白衣をまとめ、すぐ撤退の構えに入った。ここで戦えば損だ。証拠を残すだけになる。


 だがセラフィナは、逃がさない。


「黒法衣。あなたの名を」


 黒法衣が振り返り、笑った。


「名を聞いてどうする。破門者に名を教える義務などない」


「義務はある」


 セラフィナは淡々と言う。


「王命の護送を妨害した。怪物を誘導する札を持っていた。――これがあなたの仕業でないなら、なおさら名を出すべき」


 黒法衣の笑みが薄くなる。


 レイヴンが冷たい声で追い打ちする。


「名を言え。言わぬなら、この場で拘束する」


 黒法衣は一瞬だけ目を細め、やがて名を吐き出した。


「……ユスト」


 姓は言わない。だが名は取れた。名があれば追える。


 セラフィナは刻印板を指で叩いた。


「ユスト。あなたの札は押収する。――あなたが聖印と言うなら、押収されても困らないはずよね」


 ユストは歯を食いしばり、白衣を引いて去った。


 去り際、彼は小さく言った。


「王都で会おう。破門者」


 その言葉は、予告だ。


 道中の舞台は一つではない。王都にも舞台がある。彼はそこに立つつもりだ。


     ◆


 隊列が再編成され、倒木がどかされる。


 出発の前に、セラフィナはレイヴンへ言った。


「今の一件、記録に追加して。――“祠での妨害”と“札の反応”と“名”」


 レイヴンが苛立ち混じりに言う。


「また紙か」


「紙がなければ、ユストの言葉が先に王都へ届く」


 セラフィナは冷静に返す。


「ユストは“王家が聖域を汚した”と噂を流す。噂が先に届けば、あなたは守りに入る。守りに入れば、私を切り捨てる」


 レイヴンの目が僅かに揺れる。図星だ。彼は守りに入る。組織の人間だから。


 だからセラフィナは、守りに入る前に“盾”を渡す。


 レイヴンは短く言った。


「……書記。追記する」


 紙が増える。鎖が増える。


 セラフィナの首を絞める鎖ではない。


 相手の首を絞める鎖を増やす。


     ◆


 午後、隊列は王道へ合流した。


 人の往来が増える。巡礼、商人、農民。馬車。荷。噂。


 人が増えるほど危険だ。危険は刃ではなく“目”として増える。


 教会は刃を振る前に、目を振る。


 視線が集まる場所で、セラフィナの存在は“見世物”になる。


 そして見世物は、簡単に罪人へ変わる。


 だからセラフィナは、“見世物の形”を変える。


 彼女は隊列の中で、あえて顔を隠さなかった。フードを深く被らない。馬車の中にも入らない。堂々と歩く。


 レイヴンが苛立つ。


「目立つな」


「目立つ」


 セラフィナは即答した。


「隠れれば、罪を認めたように見える。堂々と歩けば、王家が“正規の護送”をしている形になる」


 シリルが小さく息を吐く。


「……こいつ、本当に怖いのは剣じゃなく噂だな」


 セラフィナは答えなかった。噂は剣より人を殺す。彼女はもう知っている。


 夕暮れ、隊列は小さな宿場町へ入った。


 宿屋の前で、民が集まり始める。誰かが名前を囁いた。


「……破門者だ」


「黒棘の女だ」


「怪物を呼ぶって……」


 囁きが波になる。波が目を増やす。


 その波の中に、白衣が混じっている。目立たない服、祈りの珠。だが視線が違う。


 エイラがいれば見抜いただろう。だがエイラは砦へ戻った。ルシアンもいない。


 ここにいるのは、王家の騎士と、セラフィナと、マラだけ。


 マラが小声で言った。


「……宿場の人間、半分は教会ね」


「半分で十分」


 セラフィナは低く返す。


「半分いれば、噂を作れる」


 レイヴンが宿屋へ入ろうとした瞬間、白い布がひらりと前へ落ちた。


 祈り布だ。誰かがわざと落とした。道を塞ぐほどではない。だが目を引く。


 そして、その布に縫い付けられていたのは――小さな棘の印。


 ブラックソーンの印。


 まるで、破門者が聖具を汚した証拠のように。


 セラフィナの胃が冷える。


 ここでも舞台が用意されている。


 宿場の舞台。


 観客の舞台。


 そして、次の噂の舞台。


 レイヴンが布を見て、低く言った。


「……始まったか」


 セラフィナは静かに答えた。


「ええ。道中の舞台は、ここからが本番よ」

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