第17話
夜明け前の空は、まだ灰色だった。
火の匂いは消えかけているのに、喉の奥に残っている。煙は目に見えなくなっても、人の判断を鈍らせる。だからセラフィナは、眠らないまま紙を整えた。
今日、彼女は王都へ動く。
動く前に、燃やされるものを燃えない場所へ移す。
――捕虜。
彼らは“教会の火矢”の証拠であり、王家の署名を支える柱だ。柱が折れれば、署名はただの紙になる。紙は簡単に踏まれる。
◆
夜明け、セラフィナはレイヴンの前へ出た。王家の焚き火は消え、代わりに露の匂いがする。騎士たちは鎧を締め、馬に荷を載せている。
レイヴンは冷たい目で彼女を見た。
「出発の準備はできている。余計な口は要らん」
「口ではない。手順よ」
セラフィナは淡々と言った。
「捕虜二名を、黒棘砦の牢へ移送する許可を」
レイヴンの眉が僅かに動く。
「牢?」
「ここに置けば消される。昨夜の襲撃は止んだが、白衣の影は消えていない。――捕虜が消えれば、あなたの記録は宙に浮く」
レイヴンは一瞬黙り、次に冷たく言った。
「王家の拘束下に置けば良い」
「王家の拘束下は、今この野営地よね」
セラフィナは言う。
「野営地は燃える。燃えた。――砦は石。火に強い」
レイヴンの目が細くなる。彼は否定したい。だが否定すれば、合理を捨てたことになる。
セラフィナは追い打ちをかけない。代わりに、“責任”を彼へ渡す。
「許可するかしないか、あなたが決めて。――あなたが許可しないなら、捕虜が消えた時、あなたが説明することになる」
レイヴンが短く息を吐いた。
「……シリル」
シリルが一歩前へ出る。
「捕虜を砦へ。監視の騎士二名を付ける。砦の牢へ入れた後、引き渡し証文を取れ」
命令が落ちた。形ができる。
セラフィナは頷いた。
「ありがとう」
礼の言葉ではなく、手順の確認として。
レイヴンは顔色を変えずに言った。
「勘違いするな。お前のためではない。王家のためだ」
「ええ。王家のためで十分よ」
セラフィナは平然と返した。
その返しに、レイヴンの口角が僅かに動いた。笑いではなく、苛立ちだ。彼は“従う女”を扱うのが得意で、“折れない女”は嫌いだ。
◆
捕虜の移送が決まった直後、ルシアンがセラフィナのもとへ来た。
「王都へ行くなら、これを持て」
彼は小さな包みを差し出した。中には、薄い金属板――アエテルの刻印を刻める素材。まだ刻まれていない。
セラフィナが目を細める。
「……刻印板?」
「砦の鍛冶場で作った。アエテルの反応を見るなら、紙より嘘をつかない」
彼の言う通りだ。紙は書ける。だが刻印は、反応が出る。反応は観客に分かりやすい。
セラフィナは包みを受け取った。
「これで何を」
「王都で何かを証明したいなら、証明の道具が要る」
ルシアンの声が低くなる。
「……お前の言葉は、あいつらに届かない。届かないなら、目で見せろ」
セラフィナは短く頷いた。
「分かった。使いどころは選ぶ」
ルシアンが僅かに躊躇い、最後に言った。
「道中、危ない」
「知ってる」
「……俺が同行できないのが不満だ」
その言葉が、セラフィナの胸に小さく刺さる。彼はいつも“領地”を優先する男だ。だからこそ、同行できない不満を口にしたことが、重い。
セラフィナは感情を表に出さず、淡々と返した。
「砦を守って。私が帰る場所が要る」
ルシアンが短く頷いた。
「必ず帰れ」
彼女はそれに、言葉では答えず、包みを握りしめた。
◆
出発。
王家の護送隊が隊列を組む。レイヴンが先頭、セラフィナは中央、監視の騎士が左右。シリルは後方で全体を見る。ルシアンは砦へ戻る準備をし、川守は葦へ散る。
教会の白衣は見えない。だが見えないだけで、いないわけではない。
むしろ見えない方が怖い。
街道へ出る前に、レイヴンが言った。
「森沿いは避ける。西の丘を回って王道へ合流する。距離は伸びるが安全だ」
セラフィナは黙って頷いた。
安全、という言葉ほど危険なものはない。
安全と言った時点で、誰かが“安全ではない何か”を用意している。
隊列が進み、丘に差しかかった頃、風が変わった。
霧が流れ、視界が開く。草原が見える。遠くに小さな祠がある。道の端に、白い布が結びつけられている。
祈りの印。
そして、その印は――教会の印でもある。
シリルが小さく呟いた。
「……ここに白衣はいる」
レイヴンが低く命じる。
「隊列を崩すな。祠には近づくな」
正しい命令。だがその“正しさ”が、罠の形を完成させることがある。
祠の近く、道の真ん中に、倒木があった。誰かがわざと置いたように、ぴったり道を塞いでいる。
レイヴンが手を上げ、隊列を止めた。
「退かせる。斧を――」
その瞬間だった。
祠の陰から、白衣が出た。
十数人。黒法衣が一人。顔が見える距離。逃げる気がない。むしろ、ここで“見せる”気だ。
黒法衣が声を張った。
「王家の騎士よ! その女を引き渡せ! 禁域を穢した異端、破門者セラフィナ・ヴェイルを!」
レイヴンの目が冷たくなる。
「引き渡しはしない。王命の護送だ。退け」
黒法衣が笑う。
「王命? 王命は神命の下だ」
また同じ言葉。だが今回は、祠の前だ。祈りの場で言えば、民は頷く。
白衣の列の後ろに、数人の“民”がいる。巡礼の服を着た者たちだ。彼らが観客になる。
観客がいる場所では、剣より物語が強い。
黒法衣が続けた。
「この女を連れて行けば、道中に呪いが溢れる。怪物が出る。王家が民を危険に晒すことになる!」
民がざわつく。恐怖が広がる。
そして、その恐怖を裏付けるように――
祠の背後、草原の端で、黒い影が動いた。
怪物。
塩が効かない個体。数が増えている。まるで、待っていたように。
セラフィナは息を吸った。
罠だ。完全な罠。
倒木で隊列を止め、祠で“聖”の舞台を作り、観客を置き、怪物を出す。
そして最後に――王家が剣を抜けば、教会は“暴力”を指差せる。
抜かなければ、怪物が民へ行く。
どちらでも、教会の勝ち筋がある。
レイヴンが低く言った。
「……進路変更だ。祠を迂回する」
迂回すれば、隊列が崩れる。崩れれば、襲われる。
セラフィナは一歩前へ出た。
「進路変更はだめ。――崩れる」
レイヴンが睨む。
「ではどうする」
セラフィナは静かに言った。
「ここで“検証”をする。あなたが昨日止めた火線と同じ。――観客の前で、嘘を割る」
黒法衣が笑う。
「検証? 異端の口車だ!」
「口車ではない」
セラフィナは包みを取り出し、ルシアンから受け取った金属板を見せた。
「刻印板。アエテルの反応を見る。――あなた方が言う“呪い”が私から出ているなら、この板が反応するはず」
白衣がざわつく。民が身を乗り出す。目に見える道具は、物語を割る可能性がある。
黒法衣が声を荒げる。
「それは禁術だ! 触れるな!」
禁術と言った瞬間、観客はさらに見たくなる。禁止は好奇心を増やす。
セラフィナは板を地面に置き、指先で軽く押さえた。
「王家の騎士、見て。――私は今、何もしない。反応が出るなら、それは“ここにある何か”の反応」
レイヴンが一瞬迷い、頷いた。
「……見張れ。誰も近づくな」
怪物の影が近づく。時間がない。
セラフィナは板の上に、拾った小石を置いた。次に、白衣の持つ聖印札の近くへ板を滑らせるように寄せた。
黒法衣が一歩下がる。嫌がる反射。
その反射だけで、観客は気づく。
“何かある”と。
セラフィナは淡々と言った。
「怖いの? 聖なる札が本物なら、反応しても困らないはず」
黒法衣が叫ぶ。
「王家よ! 止めろ! その女は――」
だが、遅い。
刻印板が、わずかに光った。
白い光ではない。鈍い、嫌な色の光。アエテルが歪むときの反応。
セラフィナは板を指で叩いた。
「見えたわね。――反応は私ではない。札の方」
民がざわめく。白衣が動揺する。黒法衣の顔色が変わる。
レイヴンの声が低くなる。
「……説明しろ。黒法衣。なぜ聖印で反応が出る」
黒法衣は笑顔を作ろうとしたが、引きつった。
「そ、それは……禁域が近いからだ! 呪いが――」
セラフィナは遮った。
「禁域が近いなら、王家の鎧も反応する。土も反応する。――でも反応したのは札。札に何かが仕込まれてる」
怪物が吠え、さらに近づく。白衣の列が後退する。民が悲鳴を上げる。
レイヴンが剣を抜きかけ、止めた。彼は今、観客の前で剣を抜く危険を理解している。
セラフィナが叫んだ。
「レイヴン! 今は剣じゃない! ――札を押収して、怪物を“誘導”してる仕掛けを止めろ!」
黒法衣が叫ぶ。
「触れるな! 聖印だ!」
その瞬間、シリルが動いた。
彼は白衣の列へ突っ込み、黒法衣の胸元の札束を掴み取った。騎士の手が聖印を奪う光景に、民が息を呑む。
そして――怪物の群れの動きが、ほんの僅かに鈍った。
止まらないが、迷う。方向が散る。
セラフィナは息を吐いた。
“誘導”がある。
この怪物は、ただ集っているのではない。
誰かが、呼んでいる。
黒法衣の顔が歪む。
「王家よ……神に逆らうか!」
レイヴンが冷たく言った。
「逆らっているのは貴様だ。――王命の護送を妨害し、怪物を呼んだ疑いがある」
物語が、逆転し始めた。
だが次の瞬間、祠の裏から別の白衣が叫んだ。
「黒法衣がやったのではない! 破門者が禁術を――!」
言い争いが増える。増えれば、怪物が民へ行く。
セラフィナは決断した。
「ルシアンが言ってた通りね。言葉は届かない。――だから、目で見せる」
彼女は刻印板を拾い上げ、札束へ近づけた。反応が強まる。鈍い光が脈打つ。
民がそれを見た。白衣がそれを見た。王家がそれを見た。
証拠が、観客に届いた。
そして、怪物が吠えた。
迷いが終わり、今度は――札を持つシリルの方へ突進する。
仕掛けは、まだ生きている。
セラフィナが叫ぶ。
「シリル! 札を捨てろ! 川へ投げろ!」
シリルが一瞬迷い、札束を川側へ投げた。札束が草を滑り、祠の横の小川へ落ちる。
怪物の群れが方向を変え、小川へ向かう。
その隙に、王家の騎士たちが槍で囲み、怪物を止めにかかる。
セラフィナは息を吸った。
罠は割れた。だが護送の罠は、まだ残る。
教会は次の場所で、次の“舞台”を用意している。
そして王都までの道は長い。
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