第16話

火が消えると、残るのは煙と怒りと、言い訳だった。


 渡し場は焦げ、葦は黒く縮れ、川面には油の膜が薄く揺れている。死骸は重く、倒れた怪物の関節は不自然に伸びたまま戻らない。


 そして人間は、そこに“意味”を置きたがる。


 黒法衣の言葉がまだ空気に残っている。


――破門者が怪物を呼んだ。


 セラフィナは、その言葉の毒を放置しない。


「負傷者を先に」


 彼女の声は淡いが、命令は明確だった。ルシアンの部下が動き、王家の騎士たちも傷の手当てに回る。川守の男たちが仲間を抱え、マラが薬と布を配る。


 タムシンはいない。砦だ。だから応急処置は簡素になる。血が止まれば生きる。止まらなければ、死ぬ。


 セラフィナは傷口を見るたびに、頭の中で“数”を付ける。


 死者何名、重傷何名、軽傷何名。馬の損耗、矢の消費、油桶の残量。敵の撤収方向、撤収速度。


 感情は後回しにする。今は、次の手のために数が要る。


     ◆


 レイヴンは王家の焚き火の前に机代わりの板を置かせた。書記が紙を広げ、墨を擦る。周囲に騎士が輪を作り、白衣がいないことを確認してから、彼は短く言った。


「記録を残す」


 それは、セラフィナが引き出した言葉だった。


 セラフィナは紙束を並べた。昨夜の襲撃記録、捕虜の証言の要約、押収物の一覧、そして今日の“火線”の経緯。


 レイヴンが冷たく言う。


「お前の書いたものを、そのまま信じる気はない」


「信じなくていい」


 セラフィナは即答した。


「だから、あなたが見た事実だけ書く。――“誰が桶を倒したか”“誰が火を拡げたか”“誰が止めたか”」


 レイヴンの目が細くなる。


「……黒法衣が桶を倒した、という主張は」


「主張ではない。目撃。あなたも見た」


 レイヴンは一瞬黙り、シリルへ視線を投げた。


 シリルが低く言う。


「俺も見た。火線の外側で、黒法衣が桶を蹴った」


 ルシアンも言葉を重ねた。


「我々が到着した時、火線が不自然に広がっていた。桶の配置が崩れていた。――怪物の足跡だけでは説明がつかない」


 レイヴンの頬が僅かに強張る。証言が三方向から揃えば、無視は難しい。


 彼は短く息を吐き、書記へ命じた。


「……書け。『黒法衣が桶を倒したと複数が証言』と。断定ではなく、証言として残す」


 セラフィナは頷いた。


「それでいい。断定は王都でできる。ここで必要なのは、“消せない形”」


 紙に走る筆の音が、火の代わりに空気を焼く。


 黒法衣の言葉より、署名の方が重い。署名は、逃げ道を狭める。


 レイヴンが最後に言う。


「これに俺が署名する。だが、お前も署名しろ。偽りなら同罪だ」


 セラフィナは迷わず署名した。


 セラフィナ・ヴェイル。


 彼女の名前は、王都では毒だ。だがここでは、刃にもなる。


 ルシアンが横で小さく言った。


「……名を差し出すのは痛いだろう」


「痛いのは昔から」


 セラフィナは淡々と返す。


「今は痛みを使う」


     ◆


 記録が出来上がったとき、レイヴンは紙を丸めず、板の上に広げたまま置いた。周囲の騎士たちが見えるように。これは意図だ。王家の内部に“共通の事実”を作る。


 共通の事実は、噂に勝つ。


 セラフィナはさらに一歩踏み込んだ。


「この記録の写しを二つ作る。ひとつはあなたの手元。ひとつは――王都の第三者へ」


 レイヴンの眉が跳ねる。


「第三者?」


「王家でも教会でもない。――ギルド評議会か、財務院の監査官。物流に関わる者へ渡す」


 マラが小さく笑った。


「なるほど。教会が嫌がる相手ね。監査とか、帳簿とか」


 レイヴンが冷たく言う。


「勝手なことをするな」


「勝手ではない」


 セラフィナは言う。


「あなたは王命の護送隊。護送が襲撃された。教会が関与した疑いがある。――物流と治安に関わる部署へ共有するのは合理」


 “合理”という言葉が、レイヴンに刺さる。彼も合理で動く人間だ。感情より、組織の損失を嫌う。


 レイヴンは数拍黙り、やがて言った。


「……写しは作る。だが送付は王都で俺が判断する」


「判断して」


 セラフィナは頷く。


「判断できる状態にするのが目的よ」


     ◆


 夕刻、セラフィナはルシアンと少し離れた場所で話した。霧が薄れ、川面に夕日が差し、焦げた葦が影を落とす。


「砦を空けた理由、聞かないの?」と彼女が言った。


 ルシアンは首を振った。


「聞かなくても分かる。火が来た。境界が燃えた。――守るべきは砦だけじゃない」


「砦を危険に晒した」


「晒してない」


 ルシアンは低く言った。


「砦は“今”燃えない。燃えるなら、ここだ。ここで燃えれば、お前が灰になる」


 セラフィナは一瞬、言葉を失った。


 灰になる、という言い方が正確すぎた。彼は戦場の現実を知っている。火は人を平等にする。だからこそ恐ろしい。


 セラフィナは小さく息を吐いた。


「ありがとう、と言うべきね」


「言わなくていい」


 ルシアンは視線を逸らし、続けた。


「その代わり、王都へ行くなら……一つ約束しろ。無理に勝とうとするな。勝ち方を選べ」


 セラフィナは頷いた。


「勝ち方は選ぶ。――だから、記録を集める」


 ルシアンが僅かに眉を寄せる。


「記録だけで勝てるのか」


「記録だけじゃない」


 セラフィナは言った。


「補給。民の生存。川筋の契約。――王都が否定できない現実を作る。現実が積み上がれば、物語は割れる」


 ルシアンは短く頷いた。


「……なら、俺は現実を守る。お前は物語を割れ」


 その言葉が、胸に残った。


     ◆


 夜。


 レイヴンがシリルを呼び、低い声で命じた。


「三日の猶予は終わりだ。明朝、セラフィナを王都へ移送する。――黒棘砦の騎士は同行を許さない」


 シリルが眉を寄せる。


「だが今の状況では、護送路が――」


「危険なのは分かっている。だから急ぐ。危険が増える前に王都へ入れる。――教会と揉めるな。記録は残した。十分だ」


 “十分”。その言葉もまた危険だ。十分と言った者は、切り捨てる準備ができている。


 セラフィナは遠くからその会話を聞いたわけではない。だが、空気で分かった。


 王家は、彼女を早く王都へ連れて行きたい。


 教会は、彼女を王都へ連れて行かせたくない。


 つまり――道中で何かが起きる。


 その夜、エイラが焚き火のそばで低く言った。


「……明日、動く前に一つやるべきだ」


「何を」


「捕虜を、砦の牢へ移す。ここに置けば、消される。白衣が来る」


 セラフィナは頷いた。


「そうね。捕虜は証拠。証拠は燃やされる。――だから燃えない場所に置く」


 マラが言った。


「でも砦へ戻すには、王家の許可がいる」


 セラフィナは静かに言った。


「許可を取る。レイヴンに。――彼は“合理”で動く。証拠を失えば、彼の署名が傷になる」


 署名の傷。


 それが、彼女の次の武器だった。

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