第15話
火が灯る瞬間は、音がない。
松脂の匂いが先に来て、次に熱が来る。白衣の手が火口を押し当て、油の縁に小さな橙が走った。橙は線になり、線は壁になる。
境界が燃え始めた。
怪物の群れが油の線に触れた瞬間、皮膚が弾けるように縮み、呻き声が上がった。鉄ほど即効性はないが、油と火は“面”で効く。白衣はそれを知っている。だから火を使う。火は証拠も一緒に焼くことを知りながら。
セラフィナの背筋が冷えた。
これで“誰が何をしたか”は灰になる。怪物も、人も、捕虜も、契約書も、全部、同じ灰。
その灰の上に、教会は物語を置く。
――破門者が禁域を穢し、王家と教会が浄化した。
レイヴンが叫ぶ。
「隊列を保て! 火線に押し込むな!」
王家の騎士たちが盾を揃え、怪物を火線へ追い込もうとする。正しい。だが正しい動きは、火線を信じる動きでもある。
そして火線は、教会が握っている。
シリルが歯を食いしばった。
「……あいつら、勝手に火を使いやがった」
「勝手じゃない」とセラフィナが低く言う。
「これが狙い。責任の境界を燃やして消す」
マラが顔を歪める。
「紙も燃える。契約も燃える。あんたの勝ち筋が――」
「燃やさせない」
セラフィナは即答した。
言い終える前に、彼女は走った。火線の内側へではない。火線の“外側”へ。白衣の油桶が並ぶ場所へ向かう。
護衛が止めようとする。
「領主様、危険です!」
「危険なのは今。危険を放置したら、終わり」
セラフィナは息を切らしながら言い、地面に落ちていた長槍を拾った。刃は必要ない。柄が必要だ。
油桶の列は、火線の補給だ。補給を絶てば火線は細る。
彼女は槍の柄で桶を横から突いた。桶が倒れ、油が広がる。火が広がる――はずだった。
だが彼女はその前に、砂袋を蹴り破った。砂が油へ落ち、油を吸う。流れが鈍る。火の舌が短くなる。
「砂! 砂を寄せて! 桶を倒すな、砂で封じろ!」
叫びが宿営に飛び、王家の兵が一瞬、迷う。レイヴンは怒鳴る。
「何をしている! 浄化の火を妨げる気か!」
セラフィナは振り返り、声を張った。
「浄化じゃない! 証拠を焼いてる! ――王家の隊長なら分かるでしょう! 火を使えば、誰が襲撃したかも、誰が命令したかも、全部“分からなくなる”!」
レイヴンの目が細くなる。彼は政治の匂いを嗅げる男だ。分からなくなることが、誰にとって得か分かる。
だが彼は、ここで教会に楯突く“形”を嫌う。共同鎮圧という形を持って来たのだから。
黒法衣が遠くから声を張った。
「見よ! 異端が浄化を妨げる! 王家よ、反逆者を拘束せよ!」
白衣がざわめき、火線がさらに太くなる。桶が増える。火が増える。
セラフィナは思った。
この場で火を止めるには、“王家の命令”が必要だ。
教会は聞かない。白衣はロゼンの名で動く。止める権限は、王家の旗しかない。
彼女はシリルへ向かって叫んだ。
「シリル! あなたが昨夜の襲撃を見た! 捕虜も押収物もある! ――火を止めろと命じなさい! 王命の護送隊として!」
シリルが一瞬固まる。命令を出すのは上官ではない。だが彼には“状況判断”の書面がある。三日の猶予を認めた形がある。
彼は歯を食いしばり、叫んだ。
「火を止めろ! 王家の荷に火が回る! 今は鎮圧より保全だ!」
騎士の一部が動いた。桶を引く。火線を狭める。だが白衣は止まらない。
黒法衣が笑い、杖を振った。
「王命は神命の下だ!」
また同じ台詞。だが今度は、王家の騎士たちが聞いている。昨夜の襲撃もある。
レイヴンの顔が僅かに歪む。だが彼はまだ、決断しきれない。
その隙に、怪物の群れが火線の端へ押し寄せ、王家の盾隊を崩し始めた。
人間の隊列は、燃える境界と怪物の圧に挟まれ、形を失いかける。
セラフィナは舌打ちした。
火線を止めるか、怪物を止めるか。両方はできない。
なら、第三の手。
「鉄! もっと鉄を!」
マラが商会袋をひっくり返し、鉄釘と鉄鎖の端切れを撒く。トリグの川守が葦から飛び出し、漁の銛を投げる。鉄の先端が怪物の脚を止める。
エイラの矢が刺さる。喉、膝、足首。倒れた個体へ、シリルの槍が刺さる。
連携が続く――が、火はまだ生きている。
そして、最悪が起きた。
火線の向こうで、黒法衣がわざと桶を倒した。油が広がり、火が一気に拡散する。燃える線が、燃える面になる。
面が広がれば、証拠の焼却は完成する。
同時に、王家の騎士たちも巻き込まれる。だからこそ黒法衣は躊躇しない。巻き込めば、“事故”になる。
セラフィナは叫んだ。
「レイヴン! 見て! あれは事故じゃない! 桶を倒したのは黒法衣だ!」
レイヴンの視線が動いた。見えた。見えたはずだ。だが見えたものを“言葉”にするには勇気がいる。共同鎮圧という形を壊す勇気が。
レイヴンが口を開く前に、黒法衣が大声で叫んだ。
「怪物が桶を倒した! 禁域の呪いだ!」
白衣が一斉に頷く。物語が瞬時に作られる。人は見たものより、周囲が頷いたものを信じる。
セラフィナの胸が冷たくなる。
このままでは、また負ける。
証拠が灰になり、物語だけが残る。
そのとき――
遠くで角笛が鳴った。
鋭く、短く、軍の音。
霧の向こうから、黒い旗が見えた。白でも王家でもない。黒に銀の棘――ブラックソーン辺境領の旧旗。
先頭に、鎧の男が立っている。馬上で槍を掲げ、声を張る。
「黒棘砦、前進! ――隊長ルシアン・クロウだ! 統治者殿を守れ!」
ルシアンが来た。
彼は来ないはずだった。砦を守るはずだった。だが彼は“火”を見て、境界が燃えるのを感じ取ったのだろう。
ルシアンの騎士たちが、火線の端へ突入した。隊列が整っている。怪物への槍が正確だ。鉄鎖を投げ、足を絡め、倒す。
ルシアン自身が、火線の前に立った。剣を抜かず、槍を構えたまま、レイヴンへ叫ぶ。
「王家の指揮官! 教会の火が暴走している! この場の指揮を統一しろ! ――火を止めるか、全員焼け死ぬ!」
レイヴンの顔が歪む。ここで決断しなければ、王家の兵が死ぬ。死ねば責任は自分にも降りる。責任は嫌いだ。だからこそ、決断が必要になる。
レイヴンは歯を食いしばり、叫んだ。
「火線を縮めろ! 桶を退避! 王家隊、火の管理を奪う!」
命令が出た。
王家の騎士たちが動き、白衣の桶へ手を伸ばす。黒法衣が怒鳴る。
「何をする! 浄化だぞ!」
レイヴンが冷たく言い放つ。
「浄化ではない。王家の作戦だ。従わぬなら反逆と見なす」
その一言で、白衣の足が止まった。
王家の言葉は、まだ効く。
火線が狭まる。怪物の数も、ルシアンの隊で削られていく。鉄と槍が働き、火が“面”になりきる前に押さえ込まれた。
セラフィナは息を吐いた。
だが、勝ったわけではない。
黒法衣が、引き際を悟った顔で笑った。
「……ほう。面白い。だがこれで終わりではない」
彼は白衣を引かせながら、最後に声を張った。
「王家よ、見たか? 破門者が怪物を呼んだ。黒棘砦の兵がここに現れたのも、その証だ!」
物語の種を撒いて去る。いつもそうだ。勝てない戦いはしない。
火が落ち着き、怪物の死骸が残る。葦が焦げ、川が黒く濁る。負傷者が呻き、泣き声が混じる。
そして、ここにいる全員が見た。
教会が火を使い、王家がそれを止め、黒棘砦が戦った。
セラフィナはルシアンと目を合わせた。彼は息を荒くしながら、低く言った。
「……遅れてすまない」
「遅れてない。来るべき瞬間に来た」
セラフィナは短く返した。
そして彼女は、レイヴンへ向き直る。
「今のこと、記録に残す。――あなたの署名で」
レイヴンの目が細くなる。
「……また紙か」
「紙がないと、人は勝手に物語を作る。今日の火は、物語のために使われた。――それを止めたのは、あなたの命令。なら、あなたの署名で残すべきよ」
レイヴンは数拍黙り、やがて言った。
「……書け。だが覚えておけ。お前は王都へ行く。逃げ道はない」
セラフィナは頷いた。
「逃げない。――ただ、行く前に“持っていく”」
彼女の視線が、白衣が去った霧の奥へ向く。
ロゼンは、次の手を打つ。
火で終わらなければ、次は“法”で殺しに来る。
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