第14話
夜の霧は、音を飲み込む。
だからこそ、馬蹄の音はよく響いた。遠いのに、はっきり聞こえる。数も、間隔も、揃っている。
エイラが焚き火の縁で指を立てた。
「……十以上。いや、もっと。隊列が二つある」
シリルが顔を上げる。耳がいい男だ。騎士は音で戦場の輪郭を掴む。
「王家の増援か」
マラが乾いた息を吐く。
「増援ならいいけどね。こういうときは“迎え”が来るのよ。誰かを迎えに来る」
セラフィナは帳面を閉じ、立ち上がった。火の光が外套の縁を撫でる。
「迎えなら、こちらも迎える準備をする。――逃げない。逃げない形で立つ」
トリグが喉を鳴らす。
「……ここ、戦場になるのか」
「なる」
セラフィナは即答した。
「ただし剣の戦場じゃない。言葉と権限の戦場。あなたは弓を持て。私は紙を持つ」
霧の向こうで、旗が揺れた。
ひとつは王家の小旗。もうひとつは、白い布――教会の白衣の列が、その布を旗のように掲げていた。
そして、その二つの列は別々に来たのではない。
不気味なほど、同じ速度で近づいてくる。
◆
先に見えたのは王家の列だった。十騎ではない。二十、いや三十近い。先頭には、背の高い騎士が立っている。鎧の意匠が違う。王都騎士団でも、儀礼隊でもない。王城付きの警護に近い重さ。
続いて、少し遅れて白衣の列が来る。黒法衣が混じり、火油の桶を運ぶ者がいる。
霧が薄れた瞬間、二つの列が渡し場の両端に陣取った。
挟み撃ち。
セラフィナは、シリルの隣に立った。彼女の両脇には監視の騎士がいる。だが彼女は“捕縛された女”の姿勢を取らない。背を伸ばし、視線を落とさない。
王家の先頭の騎士が兜を外した。鋭い目。表情が薄い。命令を守るために感情を削った顔――だが、シリルとは種類が違う。これは“命令を作る側に近い男”の顔だ。
「王命執行隊、指揮官代理。サー・レイヴン」
名乗りが短い。隣のシリルが僅かに眉を動かした。知っている名だ。
レイヴンはセラフィナを見た。
「セラフィナ・ヴェイル。拘束は継続。――三日の猶予を認めた書面、確認した。だが状況が変わった」
セラフィナは静かに聞く。
「状況とは」
レイヴンは顎を僅かに上げ、白衣の列を指した。
「教会が“協力”を申し出た。辺境の騒乱は異端と盗賊によるもの。王家と教会が共同で鎮圧する」
その言葉に、空気が冷えた。
協力――美しい言葉だ。だが共同鎮圧は、責任の境界を曖昧にする。曖昧は火を許す。
白衣の列から黒法衣が一歩前へ出る。昨夜と同じ男ではない。年長で、声が滑らかだ。口角が常に上がっている。
「審問官長ロゼンより預かりし命により、禁域の浄化を補助いたします。王家の騎士殿、我らは味方」
味方、と言う者ほど怖い。
セラフィナは一歩前へ出た。監視の騎士が腕を伸ばしかけ、シリルが目で止めた。
「味方なら確認する」
セラフィナの声は平坦だった。
「昨夜、王家の荷が火矢で狙われた。捕虜が二名いる。押収物もある。――あなた方は、それをどう扱う」
黒法衣が笑う。
「もちろん、異端の盗賊の所業として――」
「盗賊ではない可能性が高い」
セラフィナは遮った。
「捕虜は聖印の札を持っていた。矢羽も、油も、教会の補給に近い。あなたが盗賊と断じるなら、根拠を示しなさい」
黒法衣の笑みが僅かに止まる。
レイヴンが低く言った。
「……捕虜?」
シリルが前へ出る。
「いる。俺の監督下で拘束。証言も取った。『黒法衣の命令で撃った』」
レイヴンの目が一瞬だけ細くなる。だが次に彼は、冷たく整えた声で言った。
「証言は操作できる。辺境の女に、王家の騎士団が揺さぶられると思うな」
言葉が、剣の刃のように薄くて硬い。
セラフィナはその刃を受けず、横へ滑らせた。
「証言だけではない。押収物がある。――そして、あなた方がここに“共同鎮圧”として来た事実がある」
レイヴンが眉を寄せる。
「何が言いたい」
「共同鎮圧は責任を薄める。薄めれば、火が使える。――あなたは火を許すの?」
レイヴンの目が冷える。
「口が回る。だが王命は変わらない。お前は王都へ連行する。教会は盗賊を狩る。終わりだ」
終わり、という言葉は便利だ。便利な言葉ほど嘘を隠す。
セラフィナは、淡々と“終わりではない現実”を机の上に置いた。
「終わりにしたいなら、ここに署名しなさい」
彼女は紙束を差し出した。川守任命状と、通行税契約の写し。商会の印が押された契約書。川筋に補給が流れ始めている証拠。
黒法衣が顔をしかめる。
「盗賊と契約など――」
「盗賊ではない。治安役だ。統治者の任命を受けている」
セラフィナは言う。
「あなたが否定するなら、王家の法を否定することになる。――王家の騎士殿、否定するの?」
レイヴンの目が僅かに揺れた。否定すれば王家が自分の統治権を否定する形になる。肯定すれば盗賊が合法化される。
どちらも面倒だ。面倒を嫌う者は、別の手に出る。
レイヴンは紙を受け取らず、冷たく言った。
「お前は統治者ではない。破門者だ。王家印の付与は、状況を見て再検討する」
セラフィナは首を傾けた。
「再検討の権限は誰が持つ?」
「王都だ」
「誰が」
レイヴンが一瞬黙り、言った。
「……王命に従う者たちだ」
曖昧だ。だから危険だ。
セラフィナはその曖昧を、釘で止めるように言った。
「なら、あなたは今ここで、統治権を否定する署名を出せるはず。出しなさい。――出せないなら、あなたは“勝手に再検討を口にしている”だけ」
周囲の空気が張り詰める。
騎士たちの手が剣の柄に近づき、白衣の列がざわつく。ここで言葉が剣を呼ぶ。
だがセラフィナは、剣を呼ばない言葉で締めた。
「私は逃げない。だが、あなたの曖昧な言葉に首を差し出さない。――王都へ行く前に、砦の安全の“引き継ぎ”が必要よ。補給路の契約も含めて」
レイヴンが吐き捨てるように言う。
「引き継ぎ? 貴族ごっこは終わりだ」
その瞬間、川守側の葦が揺れた。トリグの副長が駆け寄り、低い声で叫ぶ。
「トリグ! 南から白衣が来た! ……いや、白衣じゃねぇ。森の方から――」
言葉が途切れた。
葦の影から、黒いものが跳ねた。獣ではない。人の形に近い――だが関節が長い。皮膚が樹皮のように硬い。
あの“塩が効かない個体”と同じ匂い。
そして、それは一体ではなかった。
五、六、もっと。葦の陰から一斉に飛び出し、川守の列へ襲いかかる。
悲鳴が上がった。
トリグが弓を引く前に、仲間の一人が倒れる。血が川へ落ち、霧が赤く滲む。
白衣の列が、ざわりと後退した。
王家の騎士たちは一瞬動きかけ、次に止まった。指揮を待つ動きだ。
その“止まり”は致命的になり得る。
セラフィナが叫んだ。
「鉄! 鉄を投げろ! 鎖でも釘でもいい、鉄で壁を作れ!」
シリルが反射で動いた。
「槍隊、前へ! 盾で押さえろ!」
王家の騎士たちが動き出す。訓練された動き。だが、彼らは“怪物戦”の動きではない。人間の戦場の動きだ。
怪物は人間の作法を待たない。
セラフィナは走り、地面に落ちていた火油の桶を蹴り倒した。油が流れる。だが火はつけない。代わりに砂を掴んで油の筋へ投げる。
「火を使うな! ここで燃やせば、責任の境界が消える!」
マラが歯を食いしばり、商会袋から鉄釘をぶちまけた。
「釘だ! これでいいんでしょ!」
鉄が撒かれた場所へ、怪物が踏み込んだ瞬間、動きが鈍った。痙攣。嫌悪の呻き。
エイラの矢が脚を射抜き、怪物が倒れる。シリルの槍が喉元を貫く。
短い連携が生まれる。
王家、川守、商会、そしてセラフィナの指示。
そして――白衣の列は動かない。
黒法衣が、遠くから祈りの言葉を唱えるふりをして、ただ見ている。
セラフィナはその視線を感じ、背筋が冷えた。
怪物が現れたタイミングが良すぎる。王家と教会が並んだ瞬間に、川守が襲われる。
これは偶然ではない。
彼女は理解した。
“怪物”は、武器として投げ込まれている。
そして次に投げ込まれるのは――もっと決定的なものだ。
戦いがひと段落した瞬間、黒法衣が声を張った。
「見よ! 禁域の呪いがここに溢れている! 破門者が触れた場所に、怪物が集う! ――これこそ異端の証!」
白衣が頷き、ざわめきが“物語”になる。
レイヴンが、冷たい目でセラフィナを見た。
「……今のを見たか。お前がいる限り、この地は荒れる」
セラフィナは息を吸い、震えを飲み込んだ。
怒れば負ける。黙れば負ける。
勝つには、第三の手を出すしかない。
彼女はゆっくりと黒法衣を指差した。
「なら、あなたが説明しなさい」
黒法衣が笑う。
「何を」
「なぜ、あなた方がここに来た瞬間に、塩が効かない個体が現れたのか。――そして、なぜあなた方だけが“無傷で観客”でいられるのか」
黒法衣の笑みが僅かに歪む。
セラフィナは続ける。
「私は王都へ連行される。なら、私がいなくなれば怪物は消えるはずよね? ――今ここで試しましょう」
レイヴンが眉を寄せる。
「試す?」
「ええ。私を“離す”。この場から少し離れた場所へ移す。監視は王家。――その上で、白衣の列がいる側に怪物が来るかどうかを見る」
空気が凍りついた。
これは、賭けだ。だが賭けの形を“検証”に変えた瞬間、ただの言い争いではなくなる。
黒法衣が声を荒げた。
「愚かだ! 異端の術で――」
「術なら、あなたが止められる。聖なる者なら」
セラフィナは冷たく返す。
「止められないの?」
白衣の列がざわつく。止められないなら聖が揺らぐ。止められるなら今すぐやれ、となる。
レイヴンが口を開く前に、シリルが低く言った。
「……検証は合理だ。王都へ連行するなら、道中の安全にも関わる」
レイヴンの目が一瞬だけ細くなる。シリルが口を挟むのは想定外だろう。
その瞬間、霧の向こうからまた足音がした。
今度は馬ではない。重い足。複数。揃った間隔。
葦が揺れ、さらに“塩が効かない個体”が現れる。数が増えている。まるで、誰かが呼んでいるように。
黒法衣の口角が、戻った。
「見よ。増えている。――異端がここにいるからだ」
セラフィナは、静かに言った。
「違う。増えているのは――あなたがここにいるから」
そして彼女は、最後の札を切った。
「ルシアンに伝令を出しなさい。今すぐ。――黒棘砦の牢にいる“刻印個体”を、門前へ連れてこい。教会の前で、刻印を見せる。王家の前で、証拠を並べる」
この場で“砦の証拠”を持ち込めば、物語の主導権が動く。
だが同時に、ロゼンが最も嫌う展開でもある。
レイヴンが低く笑った。
「……面白い。だが、砦に伝令を出す時間があると思うな」
霧の向こうで、怪物の数がさらに増えた。川守の列が崩れかけ、王家の隊列も押され始める。
そして、白衣の列だけが、まだ距離を取って安全圏にいる。
セラフィナは唇を噛み、目を細めた。
これは“戦闘”ではなく、“演出”だ。
演出を壊すには、証拠か、勝利か、どちらかが要る。
次の瞬間、黒法衣が杖を振り上げた。
「浄化の火を!」
火油の桶に手が伸びる。もし火がつけば、怪物も人も燃える。境界が消える。責任が消える。記録が灰になる。
セラフィナは叫んだ。
「火を使うな! 使えば“証拠”が全部消える!」
だが白衣は止まらない。
火が――灯る。
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