第12話

 火は、言い訳を許さない。


 霧の向こうから飛んできた火矢が、王家の荷へ突き刺さった瞬間、乾いた草が一気に燃え上がった。馬が嘶き、鎧の留め具が熱で鳴る。騎士たちが走り、桶をひっくり返し、布で叩く。


「伏せろ!」


 シリルの怒号が宿営を裂く。彼の部下が盾を掲げ、火矢の軌道へ身を滑り込ませた。


 セラフィナは伏せない。代わりに、火がどこを狙ったかを見た。馬。飼葉。予備の矢束。――補給。人ではない。


 狙いは殺害ではなく、状況の破壊だ。


 “王家の拘束隊が辺境で襲撃を受けた”という事実を作り、責任の押し付け先を作る。


 そして最も都合の良い押し付け先は――セラフィナ。


 エイラが低く言う。


「白衣の影。三、いや四……森じゃない。川の葦の向こうから撃ってる」


 マラが舌打ちした。


「完全に狙ってる。王家の荷だけ燃やしてる」


 セラフィナは一拍で決める。


「エイラ、矢手を潰す。殺す必要はない、足を射て。――トリグ、川守の者を呼べる?」


 トリグは顔色を失いながらも頷いた。


「……呼べる。合図がある」


「合図を。今」


 トリグが指笛を鳴らす。甲高い音が霧を割り、川面を跳ねた。


 護衛二名が前へ出ようとするのを、セラフィナが止めた。


「あなたたちは火を消して。火は戦うより早く命を奪う」


 シリルが彼女を睨む。


「お前の差し金か」


「違う」


 セラフィナは即答した。


「だから、違うと証明する。――あなたの騎士を守る。あなたの補給を守る。そうすれば、私は敵ではない」


 シリルの目が揺れる。彼は忠実だが愚かではない。火矢が王家の荷だけを狙っているなら、差し金の筋が薄いことくらい分かる。


 だが“疑い”は勝手に育つ。疑いが育てば、彼は王命に戻る。手枷に戻る。


 セラフィナは疑いが育つ前に“行動”を差し出した。


     ◆


 エイラは矢筒を掴み、霧へ滑り出た。


 足音がしない。弓弦が鳴る音だけが薄く響く。次の瞬間、葦の向こうで短い悲鳴が上がった。命を奪う叫びではなく、足を射抜かれた叫び。


「一人、落とした」


 エイラが低く呟く。


 霧の影が動揺し、火矢の間隔が乱れる。狙いがずれ、地面へ刺さり、乾いた草を燃やす。


「水、回せ!」


 シリルが叫び、騎士たちが桶を運ぶ。だが火は広がりが早い。焚き火ではない。油が混じっている。


 セラフィナは走って、燃えている荷の近くへ行き、濡れ布を掴んで油の筋へ投げた。布が油を吸い、燃焼が一瞬遅れる。


「油だ。筋を切る。――砂をかけて!」


 宿営の端に積んであった土嚢が引きずられ、砂が油の上へ撒かれる。火が呻くように鈍る。


 シリルが彼女を見た。驚きが混じる。貴族の女が、火に手を突っ込むとは思っていなかった顔だ。


「……なぜそこまでする」


「あなたがここで死ねば、王都はもっと混乱する。混乱の中で、私の名前が“悪者”として便利に使われる」


 セラフィナは息を切らしながら言った。


「私は便利な悪役のまま死ぬつもりはない」


 言葉が終わる前に、霧の向こうから火矢がまた飛んだ。


 だが今度は盾が間に入る。騎士の盾が火矢を弾き、地面へ落ちる。


 次の瞬間、霧から黒法衣の影が一つ、ふっと現れた。白衣ではない。教会の先遣の黒法衣――昨日渡し場にいた男と同じ匂い。


 彼は笑っていた。


「おお、王家の騎士団。辺境は荒れているだろう? 我らが“清め”てやろう」


 シリルの顔が歪む。


「……貴様らか。王家を襲ったのは」


 黒法衣は手を広げる。


「違う違う。異端の盗賊がやったのだ。――我らは救援に来た」


 あまりに露骨な嘘。だが嘘は、形を作れば“記録”になる。記録になれば、正義の顔を被れる。


 セラフィナは、すぐ理解した。


 これは“審判”だ。


 王家と教会の前で、彼女がどう動くかの審判。動揺すれば、悪役。怒って剣を抜けば、異端。黙って受ければ、獲物。


 セラフィナは、黒法衣を見て、静かに言った。


「救援なら、まず矢手を止めなさい」


「我らに指図するのか、破門者」


「破門者ではなく、王家の統治者。あなたが否定するなら、昨日と同じ。――『王家の法は届かぬ』と明言することになる」


 黒法衣の笑みが僅かに引きつる。


 セラフィナは続ける。


「あなたが“盗賊の仕業”と言うなら、証拠を出しなさい。――火矢の矢羽。矢じり。油の匂い。どれも教会の補給と一致するはず」


 黒法衣は一瞬黙り、次いで声を荒げた。


「詭弁だ! 異端は言葉で人を惑わす!」


 その言葉に、シリルが低く唸った。


「……異端だと? お前は王命の執行を妨害する気か」


 黒法衣が笑う。


「王命? 我らの命は神の命。王命より上だ」


 ——出た。


 決定的な一言。


 セラフィナの目が細くなる。彼女はそれを待っていたわけではない。だが、相手が勝手に落としていった。


「今の発言、聞いたわね」


 セラフィナはシリルへ向き直り、淡々と言った。


「教会の黒法衣が“王命より上”と言った。――あなたは王家の騎士。これをどう処理するの?」


 シリルの顔が強張る。忠誠が、別の忠誠と正面衝突した瞬間だ。


 黒法衣が慌てて言い繕う。


「比喩だ! 神意は――」


「比喩でも、王命の場で言う言葉ではない」


 シリルの声が冷えた。彼は命令の人間だ。だからこそ、命令の“上書き”を許さない。


「お前は誰の権限で、ここに陣を張り、王家の荷に触れようとしている」


 黒法衣は一瞬、歯を食いしばる。


 その瞬間、霧の向こうで笛が鳴った。指笛の合図に応えて、葦の中から数人の影が現れる。盗賊――いや、川守の者たちだ。弓と短槍。疲れた目。だが“腹”のために動く目。


 トリグが前へ出て叫ぶ。


「川守だ! 火矢を撃った奴は葦の中にいる! 今、二人を捕まえた!」


 川守の者たちが、縄で縛った二人を引きずってくる。白衣ではない。だが、腰に小さな聖印の札が下がっている。下っ端の密偵。あるいは“使い捨て”。


 マラが小さく息を吐いた。


「……捕まえたのはデカい」


 セラフィナは捕虜へ近づき、シリルへ言った。


「あなたが尋問しなさい。私は口を出さない。――王家の騎士として、誰が火矢を撃ったか確認を」


 シリルが部下へ命じ、捕虜を引き取らせる。黒法衣が顔色を変える。


「それは異端の偽装だ! 我らを陥れるための――」


「なら、あなたが署名して否定しなさい」


 セラフィナは淡々と返す。


「“捕虜は偽装である”と。あなたの署名で。後で撤回できない形で」


 黒法衣の喉が鳴る。署名すれば責任になる。署名しなければ疑いが残る。


 黒法衣は歯を食いしばり、後退した。


「……審問官長ロゼンが到着すれば、全てが明らかになる」


 セラフィナは静かに言った。


「明らかにして。――その前に、あなたの先遣が王命を踏みにじった事実は残る」


 黒法衣が旗を振り、霧の中へ引いた。火矢も止む。


 残ったのは、焦げた飼葉と、煙と、捕虜二人。


 そして、王家の騎士団の目に焼き付いた“教会の火”だ。


     ◆


 火が落ち着くと、宿営は妙に静かになった。


 シリルがセラフィナに近づき、低い声で言った。


「……お前が教会の差し金ではない可能性が高い。だが、王命は変わらない」


「分かっている」


 セラフィナは頷いた。


「だから三日で整える。その間、あなたは見た。教会が王家をどう扱うか。――その記録も残す」


 シリルが短く息を吐く。


「ロゼンは……厄介な男だ」


「ええ」


 セラフィナは視線を霧の向こうへ向けた。


「彼は勝ち方を知っている。だから私は、負けない形を増やす」


 シリルが一瞬だけ迷い、やがて言った。


「……王都へ行くなら、忠告しておく。皇太子の周りは、お前の言葉を“毒”として扱う。言葉が届かない場所がある」


「知っている」


 セラフィナの声は静かだった。


「だから私は、言葉じゃなく“物流”と“記録”で殴る」


 火は消えた。だが、火種は増えた。


 教会が王家の荷を燃やした。


 王家の騎士団はそれを見た。


 この事実は、王都へ運べる。


 運べば、誰かの首が締まる。


 その夜、セラフィナは帳面の余白に一行を書いた。


 ――“教会は王命を燃やす”。

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