第9話

封鎖は、音がしない。


 門の外に白衣が立つだけで、道は死ぬ。売り買いも、噂も、祈りも、すべてが“許可”に変わる。人が飢える速度は、怪物が増える速度より速い。


 セラフィナはそれを知っていた。だから朝一番、内庭の中央に机を出した。


 民も兵も集める。隠し事をするなら、噂が育つ。噂が育てば、教会の火が入り込む。


 オーウェンが帳面を二冊抱え、机に置く。ひとつは配給。もうひとつは敵の記録。紙の束が、ここでは剣の束だ。


 セラフィナは声を張った。


「今日から、配給は“見える”形にする。残量も、配る量も、理由も。――誰かが飢えたら、それは“偶然”じゃない。誰かが“選んだ結果”よ」


 民がざわつく。怖さと、納得と、怒りが混ざっている。


 彼女は続ける。


「だから私は、選ぶ責任を取る。あなたたちも、受け取る責任を取る。――札を失くしたら、必ず言いなさい。黙って盗めば、次の配給が減る」


 盗みを責めるより、盗みが起きたときに“全員が損をする”構造を見せる。辺境で秩序を作る方法だ。


 ルシアンが低く言う。


「列を崩すな。押すな。怪我人が出たら、最初に倒れるのは子どもだ」


 兵が列を整える。民の中から、背の低い女が震える声で手を挙げた。


「……外の白衣が、井戸を汚すって言ってる。ここは呪われてるって。飲めば……」


 セラフィナは即答した。


「井戸は砦の中。外の白衣は触れていない。――今ここで、桶の水を沸かして飲んで見せる」


 タムシンが面倒そうに火を起こし、鍋をかける。湯気が上がり、セラフィナは一口飲んだ。


「生きている。毒なら、まず私が死ぬ」


 単純な示し方が、噂を潰す。理屈は後でいい。


 配給が始まる。負傷者の家族。子どものいる家。作業班。哨戒班。量は平等ではない。必要に合わせる。


 その“差”を可視化することで、恨みは“理由”に変わる。


 理由は、争いを遅らせる。


 遅らせれば、次の手が打てる。


     ◆


 昼、門外がざわついた。


 白衣の列が左右に割れ、中央を一人の男が歩いてくる。黒法衣、背が高く、顔は骨ばっている。動きが静かで、目が冷たい。


 空気が変わった。先遣の黒法衣が“犬”なら、この男は“猟師”だ。


 ロゼン。


 門前で止まり、砦の壁を見上げる。視線だけで砦の弱点を探す目だ。


 彼の声は大きくない。だが、よく通る。


「セラフィナ・ヴェイル。出てこい」


 ルシアンが門上で息を吐く。


「来たな」


 セラフィナは机の前から動かないまま、門へ向かって声を返す。


「ここにいる。門の内側に。――あなたが審問官長ロゼンなら、まず身分と権限を示しなさい」


 ロゼンが笑った。


「王都の貴族は、紙を盾にするのが上手い」


「盾じゃない。あなたの首輪よ。権限を示せないなら、あなたはただの放火犯」


 門外の白衣たちが息を呑む。言葉は刃だ。だが彼女は、刃を抜く場所を間違えない。


 ロゼンは懐から羊皮紙を取り出し、掲げた。教会印と、複数の署名。封蝋は黒い。


「これで良いか? 禁域の異端を裁き、必要なら焼く。――それが私の権限だ」


 セラフィナは頷き、オーウェンへ合図した。


「写しを取る。署名、印、日時。全部」


 ロゼンの眉が僅かに動く。だが、すぐに平然とした。


「よかろう。好きに書け」


 彼は続ける。


「次は、お前の“罪”だ。王都での毒殺未遂、聖刻印の不正所持、寄進金横領。破門。禁域への侵入。――すべて揃っている」


 セラフィナは淡々と返す。


「王都の罪状は、王都で争う。ここであなたが扱えるのは“禁域の異端”のみ。――あなたの紙に、王都の罪状は書いてある?」


 ロゼンが笑みを深くした。


「言葉遊びか」


「法の確認よ。言葉遊びと呼ぶなら、あなたは裁く資格が薄い」


 ロゼンは、ほんの僅かに目を細めた。怒りではない。興味だ。


「……面白い。ならば禁域の異端について問う。お前は、ここで何をしている?」


「統治。補給。哨戒。記録」


「記録が異端だと?」


「記録を嫌う者が異端を作る」


 ロゼンの笑みが消えかける。図星だ。だが彼はすぐ立て直す。


「なら、記録を見せろ。異端でないなら、見せられるはずだ」


 罠。記録を差し出せば、都合のいい部分だけ抜かれ、捻じ曲げられる。


 セラフィナは即答した。


「見せる。ただし条件がある」


「条件?」


「あなたが“書く”こと。今ここで、あなたが見たものを、あなたの署名で書く。――後で改竄できないように」


 ロゼンの口角が上がる。


「私に記録させるのか」


「裁くなら、責任を持つのはあなた」


 ロゼンは短く息を吐き、門の前で手を振った。白衣の二人が筆記具を持ってくる。


「いい。書こう。――ただし、まずは“検分”だ」


 セラフィナは首を振る。


「検分は後。先に、あなたが持ってきた権限の紙を、こちらの帳簿に写し終える」


 ロゼンの目が冷たくなった。


「時間稼ぎか」


「時間稼ぎはあなた方がしている。封鎖で飢えを作って」


 沈黙。ロゼンが、ふっと笑った。


「……よかろう。では入る」


 門が半分だけ開く。ロゼンは先遣の者を二人だけ連れて入った。火油の桶は外に残す。彼はまだ“火をつけない”。彼は火より前に、折る。


 内庭で、民の視線が突き刺さる。ロゼンは気にしない。だが、“気にしないふり”ができるほど、彼は経験がある。


 セラフィナは机に帳簿を置いた。


「これが配給記録。これが放火の記録。これが告示と封鎖の記録。――あなたの署名で“見た”と書きなさい」


 ロゼンが紙に目を走らせ、口角を歪めた。


「よく整えている。……まるで最初から、私が来ることを知っていたようだ」


「知っていた。あなたは必ず来る。――教会は“物語”を守るために、証拠を消しに来る」


 ロゼンの筆が止まる。


「物語、か。……その物語にお前は勝てない。聖女は光だ。皇太子は未来だ。お前は――汚れだ」


 民がざわつく。怒りの息。恐怖の囁き。


 セラフィナは、声の温度を変えなかった。


「なら、汚れが何をしたか、あなたの手で書きなさい。――あなたの言葉で」


 ロゼンが一瞬、笑った。


「いいだろう。書いてやる」


 そして彼は紙に何かを書いた。だが、それは記録ではなく“宣告”の言葉に近い。巧妙に、彼女が不利になる文言を混ぜる。


 セラフィナはそれを見て、静かに言った。


「その一文、訂正。『破門者が配給を独断で行い、民を扇動した』――これは事実ではない。配給は砦の現状に基づく。扇動ではない。あなたがそう書くなら、根拠を併記しなさい」


 ロゼンが顔を上げた。


「根拠?」


「配給の量と理由は帳簿にある。根拠はここ。あなたが“扇動”と書くなら、どの行が扇動か、示せるはず」


 ロゼンの目が、ほんの僅かに険しくなる。彼は言葉で殺すのが上手い。だが、数字と行に縛られるのは嫌いだ。


「……やはり面倒な女だ」


「面倒が、あなたを縛る」


 ルシアンが遠くで息を吐いた。彼は剣を抜かずに戦っている。セラフィナが“紙”で。


     ◆


 夕刻、ロゼンは内庭を歩き、倉庫の焼け跡を見た。指で灰をつまみ、嗅いだ。


「放火は事実らしいな」


 セラフィナは答える。


「犯人も捕えた。証言もある」


「見せろ」


 セラフィナは首を振る。


「見せる。ただし――あなたの先遣隊が『証人保護不要』と書いた通告がある。あなたがここで証人を見た瞬間、彼は死ぬ」


 ロゼンが笑った。


「死なせなければ良い」


「あなたが“死なせない”と署名するなら、見せる」


 ロゼンの笑みが薄くなる。


「……狡いな」


「慎重」


 ロゼンは数拍沈黙し、やがて紙に署名した。


 “証人は審問官の監督下で保護する”。文言は彼のものだ。逃げ道を残した書き方だが、署名があるだけで縄になる。


 セラフィナは合図し、兵にゲイルを連れてこさせた。


 ゲイルは青い顔で震え、ロゼンを見るなり膝をついた。


「お、俺は……金で……」


 ロゼンは優しい声で言った。


「恐れるな。真実を話せば救われる」


 優しい声。だからこそ怖い。


 ゲイルが口を開く前に、セラフィナが一歩横へ出て、淡々と告げた。


「ここは砦。証言は“救い”じゃなく“記録”よ。――ゲイル、名前と依頼者の特徴だけ言いなさい。余計なことは言わない」


 ゲイルは震えながら言った。


「白衣の……司祭。灰の橋の近くで……」


 ロゼンの目が、ほんの僅かに光った。狩人の光だ。獲物を見つけたのではない。獲物にできる材料を見つけた。


「なるほど。……教区の者が暴走した、という形にできるな」


 セラフィナは、その言葉の危険をすぐ理解した。


 “暴走した下っ端”に責任を押し付け、審問官は清廉に残る。教会の上層は守られる。


 彼女は静かに返す。


「形にするなら、事実で。――依頼者の顔を知っているの?」


「知らない」


「なら、暴走と断定できない。断定するなら、あなたの推測だと明記して」


 ロゼンの目が冷たくなる。


「お前は、私の言葉すら記録に縛るのか」


「ええ。あなたは“裁く人”だから」


 その瞬間、ロゼンは一歩近づき、声を落とした。


「……セラフィナ。忠告だ。ここで踏ん張っても、王都では勝てない。世論は光を選ぶ。お前が正しくても、負ける」


 セラフィナは目を逸らさない。


「忠告をありがとう。だから私は王都で戦っていない。――ここで勝つ」


 ロゼンの笑みが、戻った。


「ここで勝つ? 面白い。では聞こう。お前の“勝ち”とは何だ」


 セラフィナは即答した。


「この砦が燃えないこと。民が飢え死にしないこと。補給路が生きること。――そして、あなたが王都へ帰るとき、あなたの鞄に“私の記録”が入っていること」


 ロゼンの目が一瞬だけ細くなる。


「私が持ち帰るのか?」


「あなたの署名がある記録を。あなたが“見た”と言った事実を」


 ロゼンは、ふっと息を吐いた。


「……いい。持ち帰ってやる。その代わり――」


 彼の声が、氷のように落ちる。


「お前も持ち帰れ。王都へ。次の審理は、逃げられない」


 セラフィナは微笑まない。


「逃げない。私が望む日に、私が望む形で行く」


 ロゼンが、初めてほんの少しだけ表情を消した。


 この女は、恐怖で動かない。


 恐怖で動かない獲物は、狩りが難しい。


     ◆


 夜。


 ロゼンは門外へ戻った。だが封鎖は解かれない。彼は火油の桶を見て、先遣へ短く命じる。


「火は使うな。今はまだだ。――代わりに“飢え”を締めろ。水も塩も、外から入れるな」


 門の内側で、その言葉は聞こえないはずだった。


 だが風が運んだ。ルシアンの耳に届き、歯が鳴る。


「……飢えで殺す気だ」


 セラフィナは静かに頷いた。


「だから明日、北の川筋の交渉を始める。盗賊でもいい。敵の敵を使う」


 タムシンが吐き捨てる。


「まるで戦争だね」


「戦争よ。……ただし、剣だけの戦争じゃない」


 セラフィナは帳簿を閉じた。紙の音が、静かな決意の音になる。


「明日からは“外”を動かす。封鎖の輪を裂く。――ロゼンが見落とす穴を探す」


 その夜、黒い森が再び鳴いた。


 だが、砦の中の人々は前ほど怯えなかった。


 恐怖の代わりに、手順がある。


 そして、記録がある。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る