第8話

夜のうちに、風向きが変わった。


 北の冷気が砦の壁に貼り付き、火の匂いを薄くする。だが匂いが消えるほど、危険が近い。人は“静かな夜”のあとに油断する。


 セラフィナは油断しなかった。


 門の内側、見張り台の下に机を置き、帳面を二冊並べた。一冊は配給の記録。もう一冊は“敵の記録”だ。告示、放火、先遣の通告。署名、日時、目撃者。


 オーウェンが隣で紙束を整える。


「先遣隊の人数は……」


「分からない。分からないなら、最悪を前提にする」


 セラフィナは短く言い、ルシアンへ視線を投げた。


「門は半開きで迎える。完全には開けない。――交渉の場は内庭の中央。兵は壁沿い。民は井戸の周りに集める。水桶を“並べるだけ”でも抑止になる」


「火に備えるのか」


「火を持ってくると書いてあった。だから火を見せる」


 ルシアンは頷き、兵へ指示を飛ばした。水桶が井戸から引き出され、列のように並ぶ。濡れ布が用意され、屋根の縁に吊られる。


 タムシンが不機嫌そうに薬草を束ねながら言った。


「審問官が来たら、怪物より厄介だよ。怪物は欲しいものが単純。人間は……」


「欲しいものが複数ある」


 セラフィナが代わりに言う。


「名声、恐怖、利益、正義の仮面。――全部、奪い合う」


 ガレンが杖を鳴らした。


「だから、こっちは“形”を作る。奴らは形に弱い。民が見てる形、記録が残る形」


 セラフィナが小さく頷いた。


「そう。焼かれる前に“見せる”。」


     ◆


 午前。


 霧の向こうから白い列が現れた。


 旗ではない。衣だ。白い法衣、白い外套、白い手袋。聖印は胸元に小さく、だが数で圧を作る。先頭に立つ男は甲冑ではなく、黒い法衣。顔は痩せ、目は乾いている。


 背後に、鉄の桶を積んだ小型の荷車が見えた。火油だ。火を“持参”している。


 門前で止まり、黒法衣の男が声を張る。


「審問官長ロゼンの名において、先遣隊が到着した。――黒棘砦の管理者は前へ出よ」


 ルシアンが動きかけるより先に、セラフィナが一歩前へ出た。貴族の礼服は無い。煤のついた外套。だが背筋だけが王都のままだ。


「統治者、セラフィナ・ヴェイル。――ここはブラックソーン辺境領、黒棘砦」


 黒法衣の男が目を細めた。


「破門者が“統治者”を名乗るか」


「王家印の付与状がある。あなた方が教会の権限で来たなら、まず提示しなさい。――ここは王国の砦だ。教会の私兵が勝手に踏み込む場所ではない」


 男は口角を上げた。


「我々は私兵ではない。異端審問の執行者だ。告示により禁域となった地に、異端が巣を作った。……焼く」


 後ろの者たちが荷車へ手を伸ばす。火油の桶が揺れる。


 内庭の空気が凍る。民が息を呑む。


 セラフィナは、声を荒げなかった。


「焼く前に、手順がある」


 そう言い、机の上の紙束を持ち上げる。


「あなたが“焼く”と言うなら、あなたは“裁く”という立場だ。裁くなら、証拠が要る。――異端の罪状、対象、執行の根拠、署名、日時。これを紙に落としなさい。民の前で」


 黒法衣の男が一瞬、眉を動かした。彼女が求めているのは戦いではない。紙。責任の形。


 だが男は、笑みを崩さない。


「紙など、灰になれば終わる」


「灰は終わらない」


 セラフィナは即座に返した。


「灰は残る。匂いも残る。誰が火をつけたかも残る。――そして私は、その灰を王都へ送りつける」


 男の目が冷たくなった。


「送りつけられる前に、あなたが消える」


 それが合図だった。白衣の一団が、じり、と門へ近づく。火油の桶が運ばれる。


 ルシアンが一歩前へ出て、低く言った。


「門を越えるな」


 黒法衣の男が笑う。


「騎士隊長。あなたが我々に刃を向けるなら、あなたも異端だ」


 ルシアンの手が剣の柄にかかり、止まる。刃を抜けば“異端の証明”にされる。抜かなければ、焼かれる。


 セラフィナは、その狭間に釘を打つように言った。


「私が、あなたに刃を抜かせない」


 そして、彼女は後ろへ振り向いた。


「水桶、前へ」


 民が動いた。兵だけではない。昨日、配給札を受け取った者たちが、黙って桶を持ち、門の内側に並べた。水の列。人の列。


 黒法衣の男の笑みが薄くなる。


 彼が焼きたいのは砦だけではない。民の“服従”だ。民が並ぶなら、焼けば“虐殺”になる。記録にも残る。噂にもなる。


 セラフィナは静かに続けた。


「あなたが今ここで火をつけるなら、まず民を焼くことになる。――教会は民を救うためにあるのではなかった?」


 白衣の一人が、わずかに足を止めた。怖いのだ。民の目が。民は武器を持たないが、見ている。


 黒法衣の男が舌打ちし、声を落とす。


「……口が回るな。ならば、こうしよう。統治者と名乗る女。あなたに“聖なる検分”を受けてもらう。禁域の汚染があるか、身を以て証明せよ」


 それは罠だ。検分とは、身体検査でもあり、拘束でもある。拒めば“やましい”と言われ、受ければ“烙印”を押される。


 セラフィナは即答しなかった。


 代わりに、机の上のもう一枚を差し出した。


「検分の前に、こちらを」


 黒法衣の男が受け取り、目を走らせる。そこには、昨夜捕らえた人型の刻印の写しがある。タムシンが描かせた、正確な線。


「……何だ、これは」


「昨夜、砦を襲った個体。塩が効かなかった。鉄が効いた。――そして首元に、刻印があった。あなた方の聖印に似ている」


 白衣たちがざわつく。黒法衣の男の目が、一瞬だけ鋭く揺れた。知らない顔ではない。知っている顔だ。知っているからこそ、動揺が出る。


 セラフィナは畳みかけない。ただ、淡々と告げた。


「検分をするなら、まずそちらを検分しなさい。あなた方の“禁域”で起きていることよ」


 黒法衣の男が紙を握りつぶしそうになる。


「……そのようなもの、偽造だ」


「偽造なら、あなたが署名して否定すればいい。――偽造だ、と」


 逃げ道がない。否定すれば記録になる。認めればさらに危険。黙れば疑いが増す。


 黒法衣の男は、歯を食いしばった。


「……我々は、審問官長の到着を待つ」


 セラフィナは頷く。


「待ちなさい。私は逃げない」


 黒法衣の男が振り返り、白衣たちに短く命じた。


「野営する。門前を封鎖しろ。出入りを禁じる。商人も、民も」


 白衣の隊が門の外で陣を敷き始める。火油の桶が並べられ、聖印の旗が立つ。砦の入口を“包む”形だ。


 ルシアンが低く吐き捨てた。


「包囲だ」


「包囲というより、封鎖」


 セラフィナは冷静だった。


「彼らは火をつけられない。民が見てるから。だから次は“飢え”で殺す」


 タムシンが唇を噛む。


「……また、飢えか」


 セラフィナは頷き、すぐに声を上げた。


「配給を前倒しする。今日の分は今配る。――そして倉庫の残量を全員の前で数え上げる。隠すほど噂が増える」


 オーウェンがすぐ帳面を開く。


 だがそのとき、門上の見張りが叫んだ。


「北道から戻りの荷車! ……いや、荷車じゃない。旗が……商会の印!」


 内庭がざわめく。


 門が内側からわずかに開き、傷だらけの護送班が雪崩れ込んできた。先頭はエイラ。泥と血で顔が黒い。だが目は生きている。


「戻った!」


 ルシアンが一歩寄る。


「荷は?」


 エイラが短く息を吐く。


「半分、持ってきた。……でも、追われた。川筋の盗賊じゃない。白衣の連中が、もう北にもいた」


 セラフィナの目が冷たく澄む。


「封鎖は一方向じゃない。……全面ね」


 その瞬間、門外から黒法衣の男の声が響いた。


「聞こえたぞ! 商会の荷を禁ずる告示は既に出ている! 今ここで荷を差し出せば、罪は軽くなる!」


 ――奪いに来る。


 ルシアンが歯を食いしばる。


「どうする」


 セラフィナは、迷わず言った。


「差し出さない。――差し出さない理由を“形”にする」


 彼女はオーウェンへ命じた。


「契約書を持ってこい。マラとの契約。王家印の統治権の写し。今日の配給記録。全部」


 オーウェンが走る。マラが笑う。


「あなた、本当に“紙”で殴るのね」


「紙は剣より遅いけど、刺さる場所が違う」


 セラフィナは門へ向かい、声を張った。


「荷は合法。統治者の契約に基づく補給。教会が禁ずるなら、署名して提示しなさい。――“王家の領地への補給を禁ずる権限”を」


 門外が静まり、次に怒号が上がった。


「異端が法を語るな!」


 セラフィナは、門を完全には開けず、ただ紙を掲げた。


「法を語るのは、あなた方が“裁く”からよ。裁くなら、法が要る。――法がないなら、それは暴力」


 黒法衣の男の顔が歪む。


 そして、彼は最後の手に出た。


「ならば――その商会の女を引き渡せ。告示違反の主犯だ」


 マラが一歩前へ出ようとするのを、セラフィナが止めた。


「引き渡さない。彼女は私の領地で契約により動いている。――領地の者を勝手に連行すれば、あなた方は“治外法権”を宣言したことになる」


 黒法衣の男が笑った。


「宣言するとも。ここは禁域だ。王家の法など届かぬ」


 セラフィナの目が細くなる。


 今の一言は、致命的だ。


 彼女は静かに言った。


「今の発言、全員聞いたわね」


 民の目が門外へ向く。兵が耳を澄ます。オーウェンの筆が走る。ガレンが、杖を鳴らす。


「記録だ。『王家の法は届かぬ』と」


 黒法衣の男の顔色が変わる。しまった、と分かった顔だ。


 セラフィナは淡々と続けた。


「教会が王家の法を否定した。――これは王都で問題になる。あなた方の背後の者も困る」


 門外の白衣たちがざわつく。上から命じられて来た者ほど、“問題”を嫌う。


 黒法衣の男は怒りで震え、次の言葉を飲み込んだ。


「……審問官長の到着まで待て。そこで決着をつける」


 セラフィナは頷いた。


「待つわ。――私はここにいる」


 門が閉じる。外は包囲。内は配給と記録。


 そして明日か明後日、ロゼンが来る。


 火と飢えと法の綱引きが、砦の入口に結ばれたまま夜へ沈んだ。

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